霊仙山
早朝に名古屋の自宅を出て、敦賀、小浜、京北と走り、彦根近くまで戻ってきた。目前の養老、鈴鹿の山を越えれば名古屋も近い。霊仙山はなだらかな頂きを見せて周囲の最高峰の姿を見せている。
多賀大社
方角を頼りに多賀大社を目指していたら、いつの間にか、参道街道に入り込んでお社の前に到着。鳥居前の糸切り餅などのお店はすっかり閉店して静かだ。ちゃちゃっと、手を合わせてお参りした。
上石津多賀線(島津越え)
さてさて、大好きな多賀のお山に入る。東から西へ抜けることが多いので、今回のように多度側から登るのは新鮮。関ヶ原の戦いに敗れた島津義弘が、命からがら逃れた裏街道がこの上石津多賀線で、いわれから「島津越え」とも呼ばれる。
西軍の将として西軍の本陣 石田三成軍の横に山を背負って陣取った島津義弘は、小早川秀秋の行動によって戦いの大勢が決したのを見て自らの進退を決し、雄略知略をもって徳川家康の本陣前を駆け抜け、活路を牧田路から西伊勢街道(現在の国道365号の旧道)にとって背進しました。
島津軍約1500名は、井伊直政や本多忠勝らの精鋭に追撃され、上石津の地に到着した頃は約200名、義弘の甥・島津豊久は重症を負って多良まで辿り着きましたが自刃しました。豊久の位牌を祀る瑠璃光禅寺は、西伊勢街道の勝地峠を越えて山間道を進んだ上多良樫原地区にあり、近くのカリン藪と呼ばれる地に豊久公墳墓之地碑があります。
島津義弘らは、多良から時山、江州の保月の山道を経て、水口~信楽~上野を経由し大阪城で人質となっていた義弘夫人らを救出して、堺より海路で兄島津義久の居城 大隈に辿り着いたのは10月3日、関ケ原の敗戦から18日目でした。その時の生還者はわずか80名ほどと言われています。
琳光寺(上石津町牧田)には、背進の殿をつとめて戦死した国家老阿多長寿院盛敦の墓が子孫によって建立され、その周囲には戦死者18名の自然石の墓標があります。宝暦治水の折、この戦いに参加した島津の子孫たちは、治水工事の合間に小さな石造りの五輪塔を作り、先祖の供養をしたと伝えられています。
国土交通省HPより
多度町 来栖
多賀大社のあたりから、「河内の風穴」の案内にそって山あいに入ってゆく。程なく右手の橋を渡る分岐部が島津越えの始まりだ。このふもとの集落「来栖」を過ぎてしまうと、山の向こうの岐阜県時山まで人の住む集落はない。
調宮大明神神社
杉坂、集落杉にいたる来栖の入り口には大きな鳥居があって、調宮大明神神社(ととのみや)がある。近くの多賀大社の奥の院ともよばれ、歴史のあるお宮。杉の古木に囲まれて、苔むした大きな磐が控えて、とてもひっそりと鎮座していた。
創祀年代不詳。社伝によれば多賀の大神が杉坂山に降臨なされ、更に栗栖の里にしばし休まれたという。その後大神は多賀の宮に移られた。当社は多賀大社の元宮といわれ、現在も多賀大社の御旅所として、4月22日古例大祭。11月15日の大宮祭には本社のご神幸がある。明治10年村社に列せられる。
滋賀県神社庁HPより
杉坂
ほぼ1車線しかない狭い山道。タイヤを乗っけたら大変な事になるけど、わだち以外はみどりの苔で被われて眺める分にはキレイだ。来栖から峠まで標高差は500mほど、低いギアでのんびり上がってきたら、白煙がすごいことになっている。この狭いところで上から降りてきた2台のクルマをやり過ごす羽目になった。本来優先されるべき上りなのに、譲る気もなくどんどん降りてくる。。。 小生は足をばたばたさせて、ガードレールのない谷側の路肩一杯にバックで寄せる。週末に集落にやってきた元住人の人たちだろう。「そこのけ、そこのけ」って雰囲気ありありで、どうよって感じ。
多賀神木
三本杉(日本観光振興協会から)
峠のすぐ手前に古びた石の標示。この先の斜面には、多賀の神木「三本杉」という巨木が鎮座している。イザナギの大神が天から降り地面に刺した箸が成長したと言われる県下最大級の杉だ。イザナギは国作りのあとに「淡路島」に降り立ったとされるのが通念であるが、この杉坂こそが天地降臨の場所とする伝説が残されている。
廃村 杉
杉坂をクネクネ道をのぼり、三本杉も通り過ぎると猫の額ほどの平地が現れる。「杉」の集落はいつ頃から存在するのか不明であるが、神代以前の歴史をもつ多度大社や来栖の調宮大明神神社と関わってきた集落だから、かなりの古さだろう。明治の頃には18戸、74名の人口があったそうな、昭和48年頃に一人もいなくなって廃村となる。廃村となって40年も過ぎているが、点在する家屋は未だ朽ちずに残っているものもある。今も住人が手を入れているからにほかならない。
簡易舗装は路肩の境界もあやしく、クルマのタイヤが踏まない所は、雑草や苔で被われる。クルマの往来が残っているからなんとかこの状態でいれるけど、クルマも入らなくなるようになれば一気に草ぼうぼうの自然の姿に戻るのだろう。
高室林道
杉の集落を過ぎてちょっと開けたところに分岐がある、ピストン林道の高室林道は未舗装のグラベル。行く先では幾つか分岐があるが、林の中で展望はきかない。
オフロードワールド保月
林を伐採した後にバイクには面白そうなコースが出来ている。彦根の溝口オートさんが管理しているオフロードコース。ジャンプやバンクコーナーなどなさげで、どちらかというとトライアルコースのようにも見える。こういったコースを管理、整備するのは大変なことだ、ぜひ走ってみたい人は必ず連絡を入れて許可を得てからにして欲しい。セローでトコトコ走ったら楽しそうだ。
地蔵峠 地蔵堂
さらに苔むした道は杉林の中を上がってゆく、すると杉の巨木が柱のようにそそり立っている地蔵峠に到着。この地域で最も古いのではないかと言われ、樹齢は1000年ほど。手前に2本、後ろに根元から枝分かれしたものが1本、どっしりと生えている。その間には立派な地蔵堂があり、伝承では「乳地蔵」と呼ばれていた。母乳の出の悪い産褥の女性から信仰を集めていたそうだ。
それにしても、峠周囲の雰囲気とこの杉の巨木、地蔵堂の醸し出すオーラーは背筋がぞくぞくするくらい何かしらの力を感じる。宮崎駿がここを取材していたら、きっとアニメのワンシーンに使っていたのではないだろうか。この島津越えの街道の中でも小生にはハイライトな場所だ。ちなみにこの巨木は「薩摩杉」と呼ばれ、追いかけてくる徳川勢から保月の村人による道案のおかげで、九死に一生を得た薩摩藩から保月の集落が後に授かったものとも言われている。
廃村 保月
穏やかな峠を越えると夕日に照らされた保月の集落に到着。ここは近隣で最も大きな集落で、明治の初めには戸数65、人口300人の相当規模であった。立派な鐘楼を備えたお寺さんや今にも人が出てきそうな家屋が残っている。昭和51年から廃村となりすでに40年以上、小学校や旅館、郵便局まで備わっていたとは思えないほどの静けさで今に至っている。
このように当時の姿が残っている訳は、住人だった方々が今も定期的に手を入れたり、一時的に生活したりしているからだと聞く。それにしても保月とはとても風流な地名だ、「回りの山の端に残る月を見る」意味から「月を保つ」、保月(ほうげつ)の地名が生まれたという説もあるようだ。名付けた昔の人はよほど風雅な資質を持っていたんだろうと思う。
アカハギ谷林道
保月の集落を出ると道は一転し深い渓谷に沿って下り出す。左手には権現谷の先に霊仙山の頂が夕刻の近づいた逆光の中に見えてくる。1つ沢を乗り越えて先日まで通行止めの原因となっていた崩落跡を過ぎ、権現谷の川まで降りてきた。この区間はアカハギ谷林道とも言われる。その昔、山伏に化けたタヌキの皮を朝早く剥いたことによるそうだ、、、かなりエグイ伝承だ。朝方に捕った獲物の皮を剥ぐのには、タブーだったんだろうか、きっと「朝」であったことが問題だったに違いない。
廃村 五僧
五僧峠
島津越え、最後の峠に向かって西進する。五僧への上り道の法面は石灰岩で出来ているためか崩れやすく大小様々な落石でいっぱい。フロントタイヤでも乗っけてしまえばすぐに転倒、クルマもサイドウオールを傷つけたら修理も出来ないようなパンクになりかねない。法面の補強をすればいいのかもしれないが、交通量の少ないこの山奥には無理なのか。道路を塞ぐような災害があっても、ブルドーザーで谷間に落としてしまえばそれはそれで良いのかも。
登り切ったところが五僧峠、朽ちかけた廃屋が残っている。数年前まで見かけた廃屋はいつの間にか平らに押しつぶされて姿も見えない。冬期間の積雪が昔の人たちの生業も元の自然に還しているかのようだ。この五僧峠を含め、走ってきた島津越えは、古代からの美濃地方と近江をつなぐ商いの道、さらには伊勢神宮と多賀神社に詣でる人たちの交通の要所でもあった。長い年月を経た現在でもこの旧道は小生の興味を引きつける。廃村になって人の気配が薄れたからこそ、いまも当時の姿を残せているのかもしれない。季節がやってくると離村に人知れず咲き誇る「桜」「シャゲ」「彼岸花」「モミジ」など人里の名残を味わうのも愛おしい。
五僧の送電線
峠を下りてくると谷を走る送電線が近接して見えてくる。日頃、高圧線は遙か頭上を走るモノなのでとても珍しい。鉄塔の大きさからみると100~200キロボルトくらいだろうか、送電線に取り付けられたオタマジャクシのようなねじれ防止ダンパーも大きくよく見える。500キロボルト級ともなれば、近寄ると「ブーン」ってうなり音が聞こえることも。
上石津町 時山
来栖から峠を幾つか越えて、人里に降りてくると時山の集落。人里に降りてきたことでホッとする。バス停のベンチでダベリング中のおばあちゃん達の訝しい視線を感じながら、バイクを停めて今日最後の写真を1枚。夕日を浴びてまだ明るいが、午後6時を優に過ぎていた。なんとか日没までには帰宅したかったが、まだまだ自宅までは80kmは残っている。今日はちょいと走りすぎたか。
「鈴鹿の山と谷」
多賀の山奥に細々とした道と名前も書かれていない集落があるのを知ってからは、小生は随分とこの地に足を運んでいる。自然と人の生活が微妙にバランスを取っていた時代が今もそのまま残されていて、歴史が好きで山が好きな小生のツボにはまっているのだろう。そのような中で、ブログでつながっている先達の情報やネットで調べていると「鈴鹿の山と谷」という山岳本に出会った。とても緻密に筆者の足でつづられた山岳ガイドは、山行のみならず集落の歴史やそこに住む人たちの生活までも取り上げていて、とても充実した内容だ。多賀の山々を始め、鈴鹿山脈一帯の山行バイブルだろう。
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