白谷林道

多賀探訪 後半

廃村 妛原(あけんばら)
河内の風穴を見学したら、再び上流に向けて走り出す。権現谷林道への分岐部、比較的広々とした川の出会いに廃村がある。この集落を河内と思っていたが、調べてみると妛原(あけんばら)。「山」かんむりに「女」という難しい漢字は、「山女」と同じ意味合いで「あけび」を示しているらしい。それなりに家屋が残っていて、いずれも人が出てきそうなくらい「ちゃんと」残っている。きっと住人の方々が週末などに来訪しているのだろう。「妛」という漢字は、「幽霊漢字」だそうな、下記のサイトでそのうんちくが書かれてあった。「幽霊漢字」なんて、面白いなあ。
廃村妛原から川沿いに進めば次に出てくるのが落合の廃村。この道は滋賀県道17号線(多賀醒ヶ井線)で、多賀と醒ヶ井をつなぐわけだが、この落合のさきは道がなくって未供用となっている。ここから霊仙山の登山道がはじまっていて、「汗ふき峠」なんていう味わいある峠を通過する。この集落も廃村、誰も住んではいないが離村が平成7年というから、すでに4半世紀が過ぎようとしている。初夏の強い日差し、新緑の鮮やかさ、日陰の静かさ、音のない廃村の風景。

どうやら、土砂崩れがあったようで、男鬼(おうり)に続く細い道には、通行止めの表示。学校跡?の広場は登山者たちのマイカー駐車場になっていた。男鬼から武奈なども見てこようと思っていたが、ここで断念。1.5車線、すれ違いが出来ない峡路だけど、うっそうとした木々のもと、苔がびっしりと道路にへばりついているこの道、走りにくいけど小生はすごく好きな道。

廃村 入谷(にゅうだん)
県道の西、細い谷を上がってゆくとそこが入谷の廃村。「いりたに」なんて小生は読んでいたが、手持ちの資料である「鈴鹿の山と谷」には、「にゅうだん」と表記されている。絶対、読めないね。この入谷、一度でも来たことがあれば、とても記憶に残る所。県道から300mほどの急坂をのぼった先の山の斜面にびっしりと集落が「へばりついている」。バイクですら1速で登ってゆくことになるホントに急坂。集落の中もそのままの坂が続いていて、雪が積もるこの地方で、凍結や積雪でもあれば人ですら身動き出来ないだろう。

集落の中心には住民への通達板と地名表示が残っている。「故郷の日」として、平成15年頃までは毎月第一日曜に元住民達が集まっていたらしい。撤去されたあとの住居跡が、プチ駐車場となっていて、サイドカーをやっと駐めることが出来る。バイクから降りて、入谷のメインストリートを上ってみた。


ホントに急坂、足腰に自信のある小生でも、この集落に住んでいたら「出不精」になるかも知れない。朽ちた家屋もあれば、こちらの住まいのように綺麗に管理されて、生きた住居も。玄関先のシャクナゲだろうか、人知れず満開を呈している。明るい陽射しの廃村は幸いにも穏やかで、好まれない訪問者にも優しく迎えてくれる。天候が悪ければ、または夕暮れ時ならば、廃村の印象もまったく違ったものになろう。

鎮守 谷神社
集落の最も高台、そこに鎮守の谷神社。雨乞いをしたり、吉凶を尋ねたり、きっとこの鎮守をすがって集落の人たちは生きてきたんだろう。この先はどうなってる?、立派なお社が残ってるんだろうか? なんとなく「怖くって」この階段を上がったことがない。

了眼寺(りょうがんじ)
「ふるさとの日」には、もと住民の方々がここに集まっていたよう。その村の鎮守が浄土真宗本願寺派の了眼寺。それが近年の災害で基礎部分が崩落してしまい、危険な現況となってしまった。廃村となった集落の修復にお役所が手助けしてくれればよいが、さすがに簡単なお話ではないだろう。

入谷出会の倉庫群
県道から集落に通じる角には、入谷の住民達が使っていた倉庫が林立している。急坂をのぼることができず、この地に生活の糧である「炭」などを町まで運ぶ「リアカー」などを置いていたようだ。近年には、軽自動車なども置かれていたんだろう。

白谷林道
再び権現谷林道に戻り、途中から分岐する白谷林道にやってきた。今日はバリケードも開いているし、このナイスな天気、サイドカーでも行くしかないよね。最深部まで10km以上の未舗装林道、大丈夫かなあ。。
落石よりも路面のがれき石が多くて、上手くよけたつもりでも側車の底をがりがりとぶつけてしまう。アールズフォークの足回りは凸凹で底着きしちゃうから、500kg越えのサイドカーをスタンディングスタイルでやり過ごす。後輪1輪だけの駆動ではあるが、グリップはしっかりあって上り坂もぐんぐんとあがってゆく。作業小屋を通過、見覚えある景色がでてくると安堵するものだ。

林道で最も北より、霊仙岳山頂につながる沢を渡る。ここからは南斜面になるので、日差しが林道を照らし、明るい景色になる。

白谷というだけあって、「白い石灰石」のがれきで溢れている。みるからに脆そうで崩れやすそう。割れる形も鋭利なので、タイヤバーストの心配あり。石を踏むにしても、形を選んで乗り越えてゆく。

セローならなんてことのない落石も、サイドカーでは要注意。これまでもずいぶんと側車の底をぶつけながらやってきたが、あまりに大きなものは「人力」で路肩に避けないと通れない。


霊仙山
白谷林道の後半部分は、南斜面の快適な走りやすい最高のグラベル。新緑の木々のむこうに、霊仙山の山頂がくっきりと見えている。カルスト地形の山だから、山頂付近はしろっぽい。下の写真は、2017年4月にセローで行ったときのもので、ほぼ同じ場所からの撮影。4月はまだ落葉樹が葉をつけていないから山の姿がよく見える。4月と6月ではこれだけ景観に違いがあるんだ。

白谷林道 絶景ポイント

林道の終点まであとすこし、ゆるいカーブの場所は南に180度の展望が広がる絶景ポイント。ガードレールがないからなおさら開放感あり。遠望する東寄りの大きなやまなみは、御池岳や藤原岳だろう。西寄りの手前のとがった山が鍋尻山か、湿気が少ないからっとした天気だったから、山々の遠望が美しい。この日のベストショット。このあたりの先達、「たまごろう」さん達なら、お湯を沸かしてカップ麺を美味しく頂く場面だろうな〜。
一息ついてGLばあさん眺めていると、側車側が「シャコタン」になっていることに気づく。タイヤがフェンダーにずいぶんと潜り込んでいて、車体を押さえると「ふわふわ」と柔らかい。どうりで、ガンガンとフレームやボディをこすったわけだ。サスペンションが折れたりしたのかもしれないが、現状ではどうしようもない。これ以降はさらにゆっくりと走ることにした。


権現谷林道終点
権現谷林道に戻り、五僧峠への分岐もまっすぐにどんどん南下する。やがて沢から離れ、道はクネクネ登りが続く。展望も期待できず、立ち寄るものもなく単調な山道。右に高室山が控えつつ、ピークを越えれば、今度は急な東斜面の山肌を転がるように落ちてゆく。いい加減、飽きた頃にやっと広い道に出てくる。左に曲がれば鞍掛トンネル、小生は右に曲がって「大君ヶ畑(おじがはた)」の集落方面へ。妛原(あけんばら)からこの分岐までが「権現谷林道」と言うらしい。

萱原(かやはら)
R306を西進して、長ーい佐目トンネルの先を左に入り、県道34号を今度は南進。野味あふれた「大杉林道」などを素通りして、犬上川ダムの手前「萱原」(かやはら)のバス停。ここが有り難いのは、手入れされた貴重な公衆トイレがあることだ。道の駅以外で綺麗なトイレを探しても、この周辺ではここだけだろう。バス停の待合には、有線電話が置かれてある。ダイアル式からプッシュボタン式に変わった頃のモノだろう。電話帳を見る限り、今も現役で活躍しているみたいだ。むらの玄関たるこのバス停に、おっきな木造が建っている。これは「にじょうぽん(二丈坊)」といって、むらの干ばつを助けた地元の妖怪のお話をヒントに作られたよう。
犬上川ダム
萱原を過ぎると静かなダムが現れる。ここは鮮やかな羽の「おしどり」が越冬することので、バードウオッチャーからは知られたところらしい。地元の子供たちが餌付けをして、一時は400羽以上も集まったらしい。
仲のいい夫婦を「おしどり夫婦」って言うよね、でも、実はそうじゃないらしい。なんと、おしどりたちは毎年、相手を変えてるらしいのだ。これは、「驚愕の真実」。
小さな峰を乗り越えた先に、鳥居が立っていて「御陵」とある。地図には記載がないけど、すなわち、皇族のお墓というわけで、不思議には思っていたが、まずは参拝してみる。

惟喬親王(これたか)
惟喬親王の石像が祀られている。記載をみれば、まだ真新しく、近隣の経済界や議員の人たちが発起となっている。惟喬親王は平安時代の皇族で、本来ならば第56代の天皇になっていたかもしれないが、闘争に巻き込まれ都にとどまれず、わずかな家来と共に、この愛知川最上流の小椋谷(君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所など)に安住の地を見つけて御所を設けたと伝承されている。読経三昧の日々をすごしていたが、法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤(ろくろ)を考案し、御所周辺の杣人たちに轆轤(ろくろ)の技術を伝授したのが、木地師のはじまりとしている。
惟喬親王御陵
菊の紋章があることは、皇族の由縁であることの証。それにしても、あまりにひっそりと人知れず扱われているのはなぜだろう。なにせ、地図にも表示されていない。実は史実での墓所は京都の安楽寺にあるとされ、この小椋谷以外にも惟喬親王にまつわる神社が各地に残っている。ある意味、この御陵も各地で受け継がれた伝承のひとつなのだ。

小椋谷(君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所など)では、戦国時代から木地師(きじし)が活動していたといわれる。木地師とは、山中の樹木を伐りだし轆轤(ろくろ)を使って木製の椀や盆など、日常生活品を作り出す職人である。適当な材木がなくなると、山から山へと良材をもとめ各地に移住した。その根元の地ともいうべき小椋谷に、惟喬親王伝説が芽生えたのは近世初頭のことである。
筒井神社
御陵をから街道を下ってくると、蛭谷の集落が谷間にでてくる。ここは全国の木地師たちの故郷とも言われ、定住を持たない彼らの本籍地となっていた。それはこの地に木地師たちの資格を交付するお役所があったからで、各地の山奥を移り住み木を切り出すことを認める大事な許可証をここで授かることが出来たのだ。

集落の中心、筒井神社の記録帳(氏子狩帳(うじこがりちょう)によると、正保4年(1647)から明治15年(1882)までの236年間に、木地師の名が4万9990人も記載されているという。
木地師資料館
轆轤を使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立していたという。だから、惟喬親王がこれを発明したことを立証することは、不可能である。また、惟喬親王を木地師の祖とする伝説は、蛭谷の住僧や筒井神社の神主などにより近世初頭に初めて語られたものらしい。
悲運の皇子、親王への民衆の同情は、伝説・伝から飛躍して、歴史とする認識を生み信仰にまで高めた。「親王の伝説」はまた、全国の木地師に誇りを与え、小椋谷を「わがふるさと」とする強力な木地師グループの絆を形成する力となった。神社の境内には、資料館があるが、残念なことに一度も中に入ったことはない。

政所町
蛭谷も過ぎて次の集落が「政所」、これも歴史を想像されるような地名であり、政(まつりごと)をしていた場所であった。小椋谷の最も大きな集落は、里の百済寺が司る荘園の中心地であった。
石榑トンネル
酷道マニアに超有名な「石榑峠」の下を、全長4000m以上の長ーい石榑トンネルが貫いている。このトンネルは、いつ通っても「寒い」。大抵のトンネルは夏涼しく、冬暖かい、ライダーにとっては快適空間のはずなのに、なぜかここは万年冷蔵庫だ。
これを過ぎれば、員弁の街並、自宅の名古屋までは1時間とかからない。ドロドロになったGLばあさんは、途中のコイン洗車で綺麗にしてやろう。
後日、かかりつけのバイク屋さんでみてもらったところ、側車側の鉄フレームがポッキリ折れていて沈みこんだのが原因だったよう。バチバチ溶接してもらって、無事に元に戻った。フレームが折れちゃうくらい、林道で激しく走ったんだねえ。

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