
多賀の廃村(男鬼)
この日の前編はこちら

権現谷 権現橋11:30
白谷林道を降りて、ふたたび権現谷林道に戻る。下流に向けて進むと、権現橋では山からのがれきが毎度のごとく、防御網を乗り越えている。脇からは溢れたガレが道に広がっている。災害があるたびに、重機での排除を繰り返しているんだろう。通行できるための労力も大変。


権現谷林道 行者橋
権現橋の先は、さらに両岸の岩壁は深く高く、陽射しの強いこの日ですら、薄暗い谷となる。曇りの日などは、もっと暗くて恐ろしげな谷となる。それでも、この権現谷は、とても印象に残る景観。

芹川
最も深い尾現谷を過ぎると、それまで伏流していた芹川の流れも見えてきて、透明でブルー、でもなんだか怪しく引き込まれそうな川底。アマゴやイワナが潜んでいそう。

河合不動明王
石灰に富んだカルストの地形、林道の対岸にある巨岩の下からは、蕩々と湧き水が流れ出している。以前は河合不動明王の札がかかっていたが、このところ見ていない。この反対側には、河内の風穴があって、大きなカルスト洞窟ができている。この巨岩の下にも、人知れない地下洞窟があるんじゃない??


妛原 (山女原 あけんばら)11:42
権現谷を抜けると、妛原の集落が現れる。それなりに家屋が残っているが、ほとんど人気を感じない。クルマが止まっているお宅が数軒、週末などにはここで生活しているんだろうか。集落の中心にある祠には、生花が供えられていた。

落合
左手の入谷の分岐をやり過ごし、北に上がると霊仙山への登山ベースとなっている落合集落。落合もすでに廃村、江戸時代には百人程度が居住していたとある。当時はわずかな畑と山からの恵み(炭焼きやお椀、椎茸など)で生計を立てていた。最近まで、ここから男鬼への林道が通行止めであったが、今日はバリケードも見当たらない。やった〜、今日は奥に行ける。


男鬼(おおり)11:52
苔むしてタイヤがズリズリする林道を慎重に走り、男鬼の集落に入る。拓けた場所で陽射しが明るいので気分のよい集落。江戸時代には、人口140人、猫の額ほどの場所で、個目や畑を耕して生活していた。1971年に離村して人がいなくなったので、廃村となり50年以上が経過している。心ない輩が投石をしてガラス戸を壊したあとが目につく。以前は器物破損などは見かけなかったはずだが。放火などさらにひどいいたずらなどが心配だ。
男鬼の地名はかなり奇っ怪、調べてみるが、なかなか決定打だが出てこない。霊仙山の頂きにあったとされる霊仙寺の別院が7カ所、712年に建立され、そのうちのひとつがここの男鬼寺。男鬼の名はこの寺の名前からきているとされる。また、となりの集落の妛原は山女原とも書くので、男・女の名前がつく集落が隣り合わせというのも、なにかいわれが有るのかも知れない。


比婆神社 11:53
男鬼の先には、いざなみを祀る比婆神社があり、ここから山を登って2km先にお社がある。祠の先には大きな巌があり、古代の巨岩信仰のひとつと思われる。麓の多賀神社はペアのいざなぎを祀るお社であり、この比婆神社と組み合わせ、多賀にいざなみといざなぎが降りたって国造りをはじめたという伝承が残っている。
もともと、地域の山の神として、社は古からあったであろうが、戦前の国粋主義が盛んであった時期に、出雲に対抗して近江高天原説を打ち出した流れがあって、この比婆神社も脚光を浴びたというのが、真実だろう。

武奈道分岐 11:55
杉の木立の中をすすむと三叉路に、右が武奈へ、左は彦根の鳥居本と案内図。古くからの武奈道に進み、、廃村巡りを続ける。ほどなく、明幸という廃村があるのだが、小生は一度も訪れたことがない。今回も注意深く枝道を探したが、見つけることができなかった。ゆっくり走って見落とさないようにしたはずなのに。



武奈 12:05
小さな尾根が続き、道はクネクネすすむと、武奈の集落への降り口。植林で薄暗い苔道をおりれば、ずいぶんと崩壊の進んだ廃村、武奈。沢のわずかに拓けたところに、石垣を組んで家屋が並ぶ。炭焼きや六呂師など、山に住むことで便利な職種はいいとして、田畑で生きてゆくことはできない土地。どうやって、昔の人たちは生計をたてていたんだろう。
調べれば、武奈の人たちは、ゴボウや里芋畑、薪割りや炭焼きで生計を立てていたが、戦後の経済成長に合わせ離村が始まり周辺の村と同様に昭和40年代頃には廃村となった。明治時代には村人154で戸数37を数える村であったようだ。この狭いところに、37戸もあったとは信じがたい。

滝谷武奈林道 12:08
巨木などが印象深い「竜宮・竜王」への分岐もやり過ごし、滝谷武奈林道に合流する。これを登り、ぐるっと反時計回りにお山を巡る。滝谷武奈林道は米原市西坂から彦根市野田山町までの延長22km、立派な舗装林道が続く。

男鬼山 稜線
この林道は昭和49年に計画され、平成15年に完成しており十分に今風に幅員もあり走りやすい。男鬼山の頂きを右に見ながら、稜線を越えて彦根側に下りはじめる。

男鬼への分岐(男鬼峠)12:15
鋭角に左に折れる分岐に入る。この地を男鬼峠とする記述を散見する。比婆神社、男鬼へ通じる車道は、まっすぐに谷を貫いてどんどん山を下る。峠をそのままにお山を下ってゆけば、ふもとの鳥居本市街に出る。多賀の集落に多くの人が住んでいた昔は、何か買い物があれば、この道を通じて、鳥居本に出て用を済ませた。

大きく育った植林のスギの木が、がっちりと重厚な石垣に食い込んでいる。ここに家屋でもあったんだろう、その後植林されて今の姿になったのか。とあれば、家屋があったのはずいぶんと昔にちがいない。

武奈道分岐 12:25
武奈から、反時計回りにぐるりと滝谷武奈林道でひとまわり、再び武奈道分岐にやってきた。以前に、RZで迷ってここに至り、たまたま居合わせたヤマハXJR1200のライダーと情報交換したことを思い出した。お相手も迷ってたみたいで、心強かったことを思いだす。

男鬼
再び、男鬼を通過。同好のライダーをがシェルパで来ていて、軽く会釈してすれ違う。

男鬼から落合へは、杉の森の中をどんどん下ってゆく。枯れ葉や苔が路面を覆うので、セローなら気にしないが、普通のロードバイクなら転倒注意。

福井県道17号 多賀醒ヶ井線 12:30
武奈に続く道がずいぶん前から不通のまま、実はこちらが行政上は県道となっていて重要なはず。そもそも滋賀県道17号線は、中途で途切れていて醒ヶ井へは、道が通じていない。しかし、一般地図上ではまるでクルマで走れるかのように、県道の表示がなされているのが面白い。


落合
落合まで戻ってきた。ここから大洞谷に入って、汗拭き峠に近づいてみる。霊仙山への登山ルートで落合には登山者のクルマが相当数駐車していた。


大洞谷登山道(汗拭き峠に至る)12:37
道はそれなりの幅員をもって大洞谷を登ってゆく。堰堤を2つほど越えて、拓けた谷の景観も楽しめたが、やがていかにも登山道となったため、ここで撤収。落合から約500mほどは上がってきただろうか。この先1kmほどで汗拭き峠で、そこからは稜線を伝って霊仙山の登山道が続く。登山ガイドでは、落合から3時間ほどで山頂に立てるとのこと。
入谷倉庫群
入谷ほど奇っ怪な場所にある集落はないだろう。クルマや荷車が集落に入れないために、ふもとの幹道に各家の倉庫ができている。昔はこの中に大八車や馬、牛などがいたのかも。

入谷入り口 12:44
細い沢伝いの道はおそろしく狭くて急な坂。この先に集落があるなんて思いもよらない。


江戸時代の人口は180人、昭和の最後まで数軒が残っていたが、すでに離村してしまっている。残された家屋は、今も週末などに手入れされていて、煙突からは煙が出てきそう。畑などの農耕ができる場所はないので、この地の人たちは山で営みを得ていたんだろう。


了眼寺
数年前の災害で土台が崩れ、崩壊のピンチにあっている了眼寺。支柱が追加されてなんとかがんばってる。崩れた範囲は広がっているようなので、これ以上基礎が流されないといいな。

河内の風穴 12:52
昨年はサイドカーを駐めて、涼しい風穴を見学してきた。その時は、すでにコロナ禍でひともまばら、入場するにも厳重な扱いであった。しかし1年後の今は、すっかり訪れる人も戻ってきていて、駐車場を整理する地元民も忙しそう。

甲頭倉
河内の風穴を過ぎた先の芹川の両岸には、幾つかの集落が眠っている。それぞれを尋ねてみることに。まず最初は、右手の山中にある甲頭倉。この集落は周囲の集落とも桟道でつながっており、背後の山奥にある鉱山で仕事をする人が多かった。 r17から集落にはいる入り口には、柵がしつらえてあり、不届き者をブロックしている。今日はたまたまゲートが開いているので、先に進もうかと思ったが、ここでUターン。週末以外は無人となる集落を守るための手段と思えば、これ以上よそ者が好奇心で入り込んではいけないだろう。数年前にこの先で元住民の方たちに出会い、お話を聞いたことがあった。元住民のみなさんは、住んではいないけど、ふるさとをとても愛しんでいることが覗えた。



向之倉 13:00
お次は左岸の橋を渡り、坂を登ってゆけば、向之倉で、道の上に家屋が数軒ありそう。手前の落書き倉庫で道は終わっているので、ここでUターン。ひとりで草ボウボウの廃屋を見て回る勇気は無し。向之倉は、毎度この倉庫をみて撤収パターン。向之倉は平地をほとんど見ない山の斜面に立地し、炭焼きなどで生計を立てていたよう。南の杉や桃原から分家してきた集落とされる。江戸時代には、142人!!の人口があったが、昭和44年(50年前)に廃村となった。


後谷・屏風 13:11
お次は、小生はじめて尋ねる後谷、屏風の集落。地図で見ても奥深い所にある興味津々の集落。


え〜、こんな山奥に集落があるの??って思いつつ、山道を3kmすすむと分岐が出現。

屏風への道
右、屏風とあるので、進んでみると、もうすぐその先でチェーンで通行止め、「関係者以外立ち入り禁止」「防犯カメラ作動中」などど恐ろしい看板。この先500mほどで屏風の集落があるはず。



後谷 13:18
屏風への分岐を直進、県道から4km弱で突き当たり、後谷の集落に到着。民家が数軒残っていて、今も生活をされているよう。たしかに、山あいに、野球場は作れそうな平地があるけど、なぜにここまで山を上がったところに集落を作ったのだろう。江戸時代は150人以上の人口があったが、明治には50人に減少。

後谷砂防堰堤

住友セメント多賀鉱山
集落のさらに上流には、砂防堰堤、さらに山の上の方には、なにやら産業遺構が見えている。これは鉱山後の証。住友セメント多賀鉱山は戦前の需要を支えるべく、セメント製造の目的で昭和10年に開山し、後谷には多くの人たちが流れ込んだ。また、甲頭倉や屏風など、周辺の集落の人たちは、この鉱山で働いたとされる。小学校まで分校が作られるまでに大きくなったが、昭和40年後頃に閉山してからは、あっという間に限界集落となり廃村となった。しかし、平成になって後、再び住民が戻り人気が戻っていた
それにしてもなぜに、このような高所、深い山あいに集落が形成されたんだろう。鉱山がきっかけとは思われず、開山以前から集落はあったわけで。。。。


桃原への道
最後に、芹川流域で最も彦根よりの桃原にも寄ってみる。県道から左岸にわたり、これまた山道を上がる。中途の坂道の傍らには、入谷に見かけたような倉庫群。やはり、昔は道も狭く、荷車などはここに収納していたんだろう。

桃原 13:36
約2kmの狭い山道を登ると拓けた集落に出てきた。芹川周辺の限界集落では、もっとも大きな集落に思える。廃屋もあるけど、クルマも駐まり人が住んでいる風情もあり。細い遠い山道の先に、このような集落があることも面白い。


桃原
大きなお屋敷、庭をかこう立派な塀など、他の集落とはちょっと雰囲気が違う。昭和40年頃まで、「多賀スキー場」があって、ゲレンデ客も訪れていたそう。その頃の栄華が残っているのかな。しかし、ゲレンデがあったなんて、いわれても分からない。
多賀の廃村をふり返って
芹川にそった山奥に、これだけ多くの廃村があることに改めて驚きを感じる。まずは、その集落ができた理由、すこし川を下れば、彦根の平地が広がり、彦根の大きな街も控えているのに、なぜこのような人里離れた狭い土地に暮らしていたんだろう。炭焼きをしていたから?、分家しても土地がなかったから? 今の時代の物差しでは、計れない理由があったに違いない。
謝辞
今回のブログ記事は、西尾寿一著作の「鈴鹿の山と谷1」を参考に書かせていただいた。ありがとうございました。
XT250 セロー 21 3/3 上石津多賀線 杉 保月 大杉林道 御池林道に続く
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