高野山 金剛峯寺 不動坂口

名古屋駅 18:14
昨年の8月、晴天のもとで高野山の壇上伽藍を参拝した。神仏にそれほど通じた小生ではないが、高野山の持つ神秘的な奥深さに惹かれる。バイクなどで通りかかることは多いが、じっくりと歩いて高野山を経験することがなかったので、まだ見ぬ奥之院を訪ねるチャンスを探していた。昨年からはじめた山歩きと、一度は乗ってみたかった高野山の鉄道をセットにして、参詣道を自分の足で高野山をめざすことにした。宿泊予約をとっていることもあり、天候に関係なく計画は実行とした。名古屋から高野山までの長距離運転とその後の山行を考えて、前日からの前乗りとした。普通に(かなり端折って)仕事を切り上げ、通勤帰りの人たちで賑わう名古屋駅を後にした。

名阪国道 高峰SA 19:50
和歌山県橋本市をナビ入力すると、新名神〜第二京阪〜南阪奈〜羽曳野ICというルートを提案してきたが、それじゃあ遠回り。名阪国道を西に進んで、京奈和道路で橋本ICというコースをとった。
橿原あたりで、ちょっと渋滞に巻き込まれたが、夜景のキレイな高峰SAの一回休憩だけで、走りきった。
橋本 20:50
高野山の麓にある橋本で前泊。携行する荷物、クルマに置いておく荷物などの仕分けをしてからぐっすり休む。高野山にはクルマやバイクで上がったことがあるが、いよいよ、自分の足で歩いて高野山に入るのは初めて、まったくの冒険だ。


学文路駅(かむろ) 9:02
高野山の至る古くからの参拝路は、3つ。そのうちでもっとも距離が短く、多くの旅人に使われたルートが今回歩く「京大阪道」。その始点がこの学文路(かむろ)で、駅前の個人宅駐車場にGTを1泊駐車させて頂く。料金を受け取りに出てきてくれたご婦人に、無理を言ってシャッターを押してもらう。気温は8度、小雨が降っており、上下レインウエア、スパッツと雨対策。学文路駅前の京大阪道の説明板に目を通して、いざ、出発。高野山の入り口、女人堂が京大阪道の終点。高低差約1000m、約10kmの行程と5時間の所要時間が見込まれる。

京大阪道の前半

学文路石標
河内長野から橋本に抜ける「高野街道」に続き、橋本をでた京大阪道は学文路からいよいよ高野山に向けて山をかけあがってゆく。道標の石碑に、「左 高野みち女人堂まで三里」とあり。


京大阪道
旧道、古道ではあるが、集落の中では生活路として今も機能している。車道から離れて、狭い道が京大阪道で、分岐部には案内や路面表記がある。

西光寺苅萱堂 9:20 学文路集落の外れで、西光寺の門前を過ぎる。中世浄瑠璃「石童丸物語」ゆかりの「苅萱堂」拝観を申し込むと、石童丸の母が大切に持っていたとされる「人魚のミイラ」をみる事ができる。。。が、小生はご遠慮しとこう。
石童丸物語とは
平安末期、筑紫の国の領主であった加藤左衛門繁氏は、わが身の罪の深さを悔いました。そして、領地も地位も捨て、高野山に上り修行の日々を送りました。やがて苅萱道心と呼ばれるようになる。息子である石童丸が14歳になったとき、出家した父が高野山にいるという噂を耳にし、父に会いたい一心から、母千里と共に高野に出向く。「女人禁制」の掟があり、仕方なく母を学文路に残し、一人で父をたずね歩きました。奥之院に架かる無明の橋の上で一人の僧と逢うも、「そなたのたずねる人は、すでにこの世の人ではない。」とだけ話し、苅萱道心は父親と名乗ることなく帰した。悲しみの中、学文路に戻った石童丸を待っていたのは、母が急病で亡くなったという不幸。石童丸は再び高野に戻って苅萱道心の弟子となったが、生涯父子の名乗りをすることはなかった。

九度山町 河根
分岐の石柱には、女人堂まで90町とあり。1町は約109m、なのでまだまだ先は長いね。宿坊「恵光院」と下段に刻まれているので、当時のPR付き道路標識みたいなモノだね。ちなみに、現在も「恵光院」は塔頭寺院として宿坊も営んでいる。


繁野 旧高野京街道第三地蔵 9:45
集落の生活路を、高度は上げつつ、歩き出してもうすぐで1時間。最初のチェックポイントの地蔵堂に到着。江戸時代に参拝者の安全を祈って、街道沿いに6つの地蔵堂が設けられた。これはその3番目。ここでひと息休憩。ちなみに、京大阪道は正確に言えば、橋本市が起点で、学文路はその通過地点。なので、第一や第二の地蔵堂は、学文路よりむこうの橋本市側に設けられている。

第三地蔵をすぎると、道は下りとなる。クルマが行き交う 生活道路を横切って、旧道へ進む。


河根 旧高野京街道第四地蔵 9:57
河根峠の頂に残る第四の地蔵。


丹生神社・日輪寺 10:04
河根の地蔵の先は、つづら折りの激下りとなって、崖下の河根の集落に落ちてゆく。中途に集落の鎮守の神社とお寺を過ぎる。古代はお寺と神社は表裏一体、人々の信仰と冠婚葬祭にふかく関わってきた。

旧中根本陣 中屋旅館跡
集落の真ん中には、本陣跡の立派な玄関が残っている。武家や身分が高い者が宿泊した本陣であり、後述する「高野の仇討ち」にも関わってくる。

集落の掲示板
掲示板には、河根小中学校の新聞が張ってあったり、「遺志として @@様より 亡父 @@のご意志としてご寄付頂きました。」と自治区や消防団、小学校などの感謝状が何組も掲示されていた。


千石橋 10:15
高野山から流れ出る丹生川にかかる千石橋を渡る。手元には、約200年前に建立された二里道標石があり、女人堂まであと二里と知らせている、



作水への激坂
千石橋を渡ると右手にコンクリ道が山を取り巻くように上に続いている。登りはじめは「なんてことはないね」なんて思っていたが、全然、手を緩めることなく「グングン」と上に続いている。息が弾むことはないが、大腿に乳酸が溜まってひと息つかないと前に進めない。中途で出会った桜の花を愛でるようなような余裕はないけど、雨空と花びらの色が同化してしまってかわいそう。作水の坂は、わずか500~600mほどの距離だけど、数回は立ち止まるしかなかった。京大阪道でもっとも辛かった坂。

作水 旧高野京街道第五地蔵 10:26
坂を登り切った作水の集落に第第五の地蔵さんが待っていた。雨は止むことなくシトシト降っている。天気予報では降水量1mmと表示されているから、なるほどそんな程度だろう。それでも、上下レインウエアでは、歩けば暑くなって蒸れてくる。まずはレインコートのズボンを脱いでスッキリ。重ね着していた上着も1枚脱いで、軽装に。地蔵さんの横で体制を立て直す。ついでに、携帯していたポールニも登場してもらう。さあ、仕切り直しでがんばろ〜。


作水から桜茶屋までは、なだらかな登りが続く。ポールに腕の力を加えれば、前に進む力が増して登りが楽になる。また上体が安定するので、しっかり踏み出せる。あ〜、さっきの激坂でもポールを活用すれば良かった。トレッキングポールの「ありがたみ」がよく分かった。

古くからの民家が旧道沿いに続く。自家用車が置いてあって、住んでいるのであろうが、明かりも点いていない家が多い。一人テクテク歩いていると、人の気配を感じないのも心細い。煙突から煙が立ち上るのをみるとなんだか安堵する。

桜茶屋 旧高野京街道第六地蔵 11:01
京大阪道、最後の第六地蔵まで到達。かわらずだらだらと登りが続くが、先ほどの激坂を思い起こせば、その苦労した「お駄賃」の様に思えてくる。もう、行程の半分以上を踏破してきたよ、後半戦もガンバだね。

京大阪道 後半


高野の仇討ちと黒岩 11:23
桜茶屋の集落の外れに解説文がたっている。「日本最後の高野の仇討ち」とは、なになに?? 幕末の赤穂藩で、財政難により下級藩士の不満が渦巻き権力闘争が発生し、藩政を担っていた村上天谷が下級藩士ら13人に襲われ、家老とともに暗殺される「文久事件」が起きた。9年後の明治初期、村上の息子ら8人が父親の仇討ちを計画。文久事件で暗殺に関わった西川ら、藩士ら6人を高野山で殺害する「高野の仇討ち」を起こした。この明治4年の事件をきっかけに、明治政府が復讐を禁止した。周到に作を練って、右手の大きな岩(黒岩)に隠れて、機会をうかがったとされる。仇討ちの状況を詳細に記しているのが下記の「きくおのブログ」。読んでいて肌寒くなった。


田川親子の墓
仇討ちの場をもすこし進むと路傍に墓標が並ぶ。仇討ちにあった西川らのお墓であった。墓石を読んでみると、親子の墓だった。子連れの田川は、親子共々、仇討ちされて命を落とす。32才の父と13才の息子だった。恨みを晴らした側、晴らされた側、いずれの思いも感じつつ合掌。

神谷 高野山一里道標石 11:40
高野山の手前、もとは宿場がならんだ神谷の町に入ってきた。集落の入り口には、賑やかに石標が並ぶ。女人堂まであと一里と彫られた一里道標はとんがりあたまの石柱で、スタート地点の堺市には「十三里道標石が今も残っている。卒塔婆の形をした道標(町石)は、弘法大師が眠る奥之院までの距離(町108m)を示している。麓の九度山にある慈尊院から町石道にそって、根本大塔まで180基、さらに弘法大師御廟まで36基が残っており、ユネスコの世界文化遺産だ。

旧白藤小学校 11:48
心強いトイレの表示、謹んで利用させて頂く。木造建築は、2008年に廃校となったもの、裏には猫の額ほどの運動場が残っている。20軒以上の集落であったが、今では8軒になってしまった。コーヒーも頂けるようであったが、この日はクローズだった。



立派な家屋も人が住んでいない。路肩にはなんとか原型を残す軽トラ。これもユネスコの登録遺産になってるんだろうか?? この頃がもっとも雨脚が強かった。スタートから用心してレイン用のバイクグローブをはめてきたが、それでも指先がかじかんでくる。雨の日は、もっと強力なレイングローブを用意する必要あり。

県道118号 12:02
神谷の町外れで、高野下から上がってきた県道118号と合流する。この先は、終点の金剛峯寺まで、京大阪道と県道118号は重複していて、県道はクルマの通れない点線道路の表記となる。案内図では、ここを右折とあるが、古道はこれを直進して「四寸石」の脇を通るのが、正解のよう。この先でそのことを知った。


苔むしたコンクリの切り通しを過ぎると、不動谷川にでて、その先に朱塗りの極楽橋が見えてきた。高野線の終点、極楽橋駅がもうすぐそこだ。雨も小雨になって、気分も晴れてくる。

九度山方面の階段
山側の線路を乗り越えるように、真新しい金属の階段が設えてあって、九度山方面への案内あり。そっか、先ほどの交差点を直進すると、四寸岩を経てここに出てくるものと思われる。京大阪道のルートで参考にした資料にはこの階段のことは触れられていないので、最近になってのことだろう。

極楽橋 12:16
極楽橋駅の駅舎も目の前で、なんだかホッとする。この端を渡るといよいよ京大阪道のクライマックス、不動坂が始まる。

不動橋で後ろをふり返ると「線路の向こうにも石標がたち、道が続いているようだ。そっか、橋を渡って、この線路を横切り、向こう側に続くのが、本来の京大阪道なんだね。線路のために渡れなくなってしまったんだ。だから、京大阪道の再現のために、階段が作られて「四寸岩」を見てこれるようにしたんだね。


高野山ケーブルカーの軌道下 12:26
雨の中を歩いていると、休む場所に困るので、お昼を食べる場所を探しあぐねていた。ちょっと遅くなってしまったが、雨をしのげる軌道下のトンネルで、おにぎりを食す。座る場所もないので、立ったまま片手におにぎり、片手にお茶でお腹に流し込んだ。パリパリのおにぎりが旨いが、手が悴んで落としそうだ。

さて、お腹に燃料を入れたから、残りをがんばりましょう。日が差し込まない北面の谷間は薄暗く、あまり良い気分はしない。ケーブルカーから分かるように不動坂の表示がたっていた。不動坂は小石を固めた歩道になっているが、雨の元で滑る滑る、登山靴でも注意が必要。これならコンクリ素地で十分だろう、返って危ない。

不動坂旧ルート(いろは坂)分岐 12:39
不動坂は新旧、2ルートあり。旧不動坂(いろは坂)は310mを2.7kmで登るという京大阪道のもっとも険しいルート。そのため、大正時代に安易で歩きやすい新ルートが作られ、以降そちらが活用され旧ルートは人も通わない廃道となった。2011年に朽ちた桟道などが整備され、昔の姿をのこした旧ルートが復活、これをもって、2016年には不動坂がユネスコ世界遺産に指定された。もちろん、小生はその旧ルートを選択して進む。さて、どんな景色が待ってるんだろう。
約20分ほどで、もっとも急とされるいろは坂を通過。い、ろ、は、なんて角を数えながら来たのなら、50音順でどこまで曲がり角があったんだろう。兎にも角にも、京大阪道のヤマ場を乗り越えることができたんだから、嬉しいね。前半に体験した作水のなんてことのないコンクリ坂のほうが心折れたね。

万丈転 12:57
断崖絶壁のこのあたりは、足を滑らすと命を落とすとされた。そのため、高野山で犯した悪人の手足を縛り簀巻きにして、ここから突き落とす処刑をした場所と言われる。転げ落ちても命があれば、放免されたとされ、中には幸運な罪人もいたのかしらん。



いろは坂から清不動までは、緩やかな尾根伝いの平和なルートでペースも上がる。木の根っこで幾何学模様の路や鮮やかな苔で覆われた路傍、岩を抱え込むように朽ちた切り株など、周囲を愛でる余裕も出てきた。

新・旧不動坂分岐 13:12
旧不動坂に分岐してから、30分とすこしで、新不動坂と合流。新不動坂はあの滑る小石の路面で真っ平ら、そりゃこっちの方が楽ちんだろう。


清不動(きよめのふどう) 13:13
新旧合流のすぐ先に、最初に出会う建造物が清不動。参拝前に心身を浄め治す場であり、不動坂や不動谷川の名は、これを由来とする、

清不動堂の裏へ不動坂は続く。再び森林の中の道となるが、これが京大阪道の最後の山道だ。


木立の中を進めば、緩やかな切り通しを超えてついに不動坂の終点に到着。車両を遮る遮蔽なのか、門のように石柱が立っていた。この先で新ルートと合流する。

花折坂 13:22
石柱の近くにはお地蔵さんと花折坂の表示。もうここまでこれば、終点の女人堂も近い。このあたり、参拝者たちは道ばたに咲く花を摘んでは、大きな花瓶にさして弘法太子に捧げたとされる。その花瓶が先ほどの対の石柱なんだろうか?

バス専用道路 13:30
南海電鉄の高野山駅は、自家用車で入ることが出来ないので、高野山の市街と駅の移動はこのバス専用道路で行われる。広いとはいえ、大型路線バスがすれ違うには、無線連絡で待避所を利用していた。反対側を歩く小生もびびるくらい、急カーブを大回りでバスがやっている。かなり、怖い。


昨年のクリスマス、2月はじめの積雪が日陰には残っている。その頃の高野山はすっぽり雪に覆われて白銀の世界だったようだ。カーブミラーに映る自分のすがたをパシャリ。そう、学文路を出発して、山行の志とすれ違ったのはたったの一度。いくつか集落を通り過ぎてきたが、住人も全く見かけず、測量作業の数人を見かけたのみ。道中に感じていた寂しさは、人に出会っていなかったからなんだ。

高野山 女人堂 13:33
さあ、いつしか女人堂の前にやってきた。夢にまで見た?歩いての高野山入りを果たす。雨の中の歩行は、今後の山行のためにも良い経験となった。暑すぎず、寒すぎず、1mm程度の雨であれば、上下のレインウエアは不要と知る。またジャケットの調整できるスリットを活用すれば、蒸れることなく快適に過ごせることも分かった。体だけじゃなくて、心も折れそうになる登り路、快適でスイスイ進む平坦路、まさに谷あり山ありの山行は、人の人生のような気がしてくる。女人堂の前で、通りががりの観光客に写真を撮って頂く。単独行にもなれて、ずうずうしく撮影をお願い出来るようになってしまった(^_^;。


京大阪道 学文路より女人堂 距離約10km 所要時間 4時間31分 
高野山 金剛峯寺
さて、第一目標の女人堂にたどり着く。時間に余裕があるので、女人堂から再び山に入って、弁天岳を経由して、高野山の玄関といえる「大門」まで足を延ばすことにしよう、正面玄関から、高野山に入り、ゴールインの金剛峯寺を目指しましょう、さあ、もうひとふんばりだ。
「山行記 5 女人堂 高野下駅舎ホテル 奥之院」に続く
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