
高野山 奥之院
前半はこちら

女人堂(不動坂口) 13:33
学文路から女人堂まで、京大阪道を走破、女人堂を参拝、御朱印を授かってさあ、お先に進みましょう。計画より早く進んでいるので、女人道を歩いて大門までぐるりと遠回り。大門をくぐって金剛峯寺に向かうことにした。


女人堂 不動坂口 13:50
女人堂の前には、高野山バスの停留所。その背後から女人道が始まる。京大阪道を歩いての疲れもあるが、女人堂の参拝でちょっと休憩できている。さあ、がんばってゆきましょう。

女人道
尾根の北側を取り巻いて高度をあげる。斜面の根っこたちが歩きにくくさせている。木の若さからすれば、50〜60年前からの変化だろう。女人道巡りの参拝者が大勢歩いた時代は、またちがった参拝路の姿だったろう。

谷上女人堂跡
七つあったとされる女人堂の一つ、谷上女人堂がここに建立されていた。でもねえ、平地のない尾根だけど、どこにあったんだろうね。
嶽弁財天社(だけのべんざいてんしゃ)
14:08
不動坂口から30分もかからずに、山頂の弁財天に到着。高野七弁天といわれる弁天神社のひとつで、弘法大師がヤマトの弁天様をここに勧請したとされる。

弁天岳
高野山、金剛峯寺は、周囲の山々に囲まれた盆地に立地し、その周囲の山でもっとも標高が高いのが弁天岳。弘法大師が、山頂に弁天を置いて雨乞いの儀式をしようとしたのも頷ける。

女人道
明治5年まで高野山は女人禁制の地。そのため、女性は高野山の結界に沿ってつくられた参詣道(女人道)を巡って高野山の参拝としていた。高野山に入ってくる7つの街道それぞれに女人堂が設けられ、参拝所や宿泊所としてこれを活用した。現在も残っているのは、不動坂口の女人堂だけだ。
紀伊国名所図会 ろくろ峠
「高野山より熊野への往還で、この峠から壇場の諸伽藍が眼下に見える。」江戸時代の書物には、峠から、ろくろのように首を長く伸ばして、山内のお堂や伽藍を目に焼き付けようとする挿入絵がある。女性の参拝者が押し寄せて、住民が案内役を買って出て「山廻り」と称する行脚人気であったよう。「腰押し」なる助っ人も登場し、坂道では後ろからお尻を押したなんて、職業まであったようだ(^^)。
大門口女人堂跡 山頂からはぬかるんで滑りやすい小径をドンドン下ってくる。ここにも女人堂があったとされるが、すっかり跡形もなく、案内板だけが残る。


女人堂 14:27
やがてクルマの騒音が聞こえるようになって、見慣れた大門前におりてきた。女人堂から50分もかからずに大門に到着。よくがんばりました。

高野山
左手の大門を玄関として、東に向かえば、壇上伽藍、金剛峯寺、奥之院とつながってゆく。高野山すべてをひっくるめて、ひとつのお寺とできるだろう。根本大堂の壇上伽藍は法事を執り行う「本堂、法堂」、金剛峯寺はお坊さんたちの住まいである「宿坊、方丈」、そして奥之院が檀家の「墓地」であろう。そしてたくさんの塔頭寺院でなりたっている「一大宗教都市」だ。

高野山 大門 14:32
高野山全体の総門で、300年前に再建された。金剛力士像が門をくぐる参拝者をグッと睨んでいる、でかい建物だ。国の重要文化財で世界遺産に指定されている。ここをくぐって、いよいよ高野山に入る。

大門をくぐると広い参道が市街に続く。このあたりの木立も数百年を経た杉の巨木たちだ。

金剛峯寺 中門
塔頭寺院やお土産屋さんを通り過ぎ、壇上伽藍の入口、中門に到達。昨年秋に壇上伽藍は参拝を済ませているので、今日はさらっと拝観する。

金剛峯寺 金堂 14:42
高野山の総本堂である金堂は、多くの法要が行われる大事な場所。838年に初代の金堂が完成し、脈々と生き伝えられてきたが、昭和元年に本尊共々焼失してしまう。現在の7代目の金堂は昭和7年に鉄筋コンクリートで再興された。木材、瓦で表装されているので、これが鉄筋とは中に入らないと分からない。

金剛峯寺 不動堂
初代は12世紀、不動堂は鎌倉時代に再建され、高野山でももっとも古い建造物のひとつ。桧皮葺の優雅な屋根が美しい。四隅の屋根の形状がすべて違っているのは、4人の大工がそれぞれを作ったからとされる。美しい建物、一級品の国宝だ。

壇上伽藍 入口
壇上伽藍を西に進むと大伽藍と書かれた入口にでてくる。その面前が、金剛峯寺の正門となる。

金剛峯寺 正門 15:02
さて、今日の終点、金剛峯寺に到着。麓の学文路を9時に出立していたので、6時間でゴールイン。足腰に異常なく、無事に目的を達成できて嬉しい。さて、中に入りましょう。古来、この正門を通れるのは、皇族と高僧のみ、それ以外は右手のくぐり戸を用いた。

主殿は堂々とした建築、再建されて200年が経っている。大屋根の上には天水桶と言われる雨水をためる桶があって、火事の備えだ。正面の大玄関はやはり貴賓にしか使われなかった。正門の正面に位置する主殿の持仏の間には本尊弘法大師座像が祀られ、秘仏とされている。主殿は広く、狩野派のふすま絵で設えた客間がいっぱい。秀吉の後継者の豊臣秀次が、疑いをかけられて切腹したのは、「柳の間」で「秀次自刃の間」と呼ばれる。屋内はすべて撮影禁止なので、しっかり目に残してきた。
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
貴賓室の奥殿の前には、国内で最大の石庭がひろがる。奥殿ともども、石庭は昭和9年に造設された。配置された石は、左右に雲海を進む一対の龍を表していて蟠龍(とぐろを巻く龍)とされる。龍といえば、禅宗と思っていたが、密教の真言宗も龍を尊んでいるんだ。気温は5度を割り、日も当たらない。ようやく雨が上がってきたが、靴を脱いでの拝観は、足が冷たい。
南院 波切不動 15:50
京都で法堂の昇龍図を堪能しているが、高野山のお寺にも龍に会えると知り、金剛峯寺の北にある「南院」に出向く。波切不動とは、弘法大師は遣唐船で嵐にあった際、船の舳先に現れて海を切りさき弘法大師を救った不動明王をお祀りしている。御本尊は、弘法大師空海が赤栴檀(しゃくせんだん)の霊木をもって彫ったもの。


波切龍天井
本堂の軒下、堂内の天井、二ヶ所に豪快な龍が描かれている。後学でこれも泣き龍と知る。あ〜、そうとは知らず、手を叩いてこなかった(>_<)。

そろそろ、宿に戻る時間となって、電車で高野山を下りる。降車する駅は、「高野下」、20軒ほどの民家があるだけの山あいの駅。そんなところにお宿など普通は無いわねえ。

高野下の夕刻のホームに降り立つ、他に誰も降りるひとはいない。

高野下駅 16:47
駅舎の外にやってきたが、見渡しても、旅館や民宿などの気配も無し。

高野駅下駅舎ホテル
さて、もう一度改札口に戻れば、駅舎の中に「天空」と書かれた部屋がある。

この天空が、今晩泊まる部屋。元は改札や切符を切っていた駅職員の部屋であったはず。自動改札になり、無人駅となっている駅舎がホテルになっているのだ。高野下の駅舎は、大正時代に開設された歴史ある建物。極楽橋駅が出来るまでは、この駅が終点でここより参拝客は高野山に上がっていった。2019年に南海電車と「KIRINJI」という民泊運営企業がコラボし、高野下駅に、たった2部屋のホテル形式の宿泊施設を作った。


天空
直前に伝えられた暗証番号をドアに打ち込めば、カチャリと開く。小生が借りたのは、小さい方の「天空」で、ベッドがひとつ。駅舎ホテルと称しているので、おもしろい意匠の工夫が見られる。


冷蔵庫、電子レンジ、シャワーなどのアメニティは、ビジネスホテルのレベルをクリアしている。大正時代の建物だから、木造の造りの部屋は温かく柔らかい。こんなところに、釣り革があるけど、使い道ないよねえ。

車内銘板
玄関ドアには、車内銘板が貼り付けてある。東急車両、昭和45年 大阪と読める。

中吊り広告
木製の支柱がそのまま使われた中吊りも再現されている。7127は車両番号だろうね。

ベッドサイドには、運転席?車掌室?にありそうな補助イス。なるほど、折りたたむことが出来てこの位置にぴったりだね。照明のスイッチも、電車のスイッチを思わせる「レバー」タイプで、カチカチ楽しい。禁煙のプレートも車内にあったものだろう。



デスクの正面には、運転席にあった計器が並んでいる。これで操作レバーが付いて、電車でGOなんて遊べられたらいいのに。宿泊記念に非売品の硬券が冊子と共に用意されている。こりゃ、大事にしよう(厳重に転売禁止の表示あり)。この窓の向こうは自動改札機、ということはこの部屋は切符を扱ったりする改札口だったんだね。この駅でもっとも忙しい場所であっただろう。

南海電車 7100系(J鉄オンラインさんより引用)
1970年頃より稼動し、2019年までの50年間も本線で活躍した7100系の部品がここで活用されている。小生はあまり「鉄分」を含んではいないが、営業中の駅舎に泊まれるなんて、電車マニアにおいてはたまらないだろう。電車がホームに入ってくる音、改札を抜ける人の雑踏、すれ違いの電車が待ってる間「ポコポコ」とコンプレッサーを回す音、すべてが面白い。


高野下に食事をするところはないので、ふもとの橋本まで戻りグーグルで洋食屋さんを探す。一日歩いて、かかとがちょっと痛むくらいで、膝や腰は大丈夫。生ビールを置いていないのが悲しかったが、瓶ビールも確実に旨い。あ〜〜、まいう〜ですね。

さて、翌早朝。カーテンを開けると線路がよく見える。予報ではお昼過ぎまで雨は残るよう。今日も雨の中の歩きとなりそうだ。お部屋の熱いシャワーを浴びて出立の準備。ホテルならフロントでチェックアウトとなろうが、ドアの鍵をかけて退出するだけでOK。お代はすでに支払い済みで、鍵の受渡もなし。便利と言えば、便利だけど、初めての利用なので、ちゃんと部屋に入れるかどうか、心配だったね。

高野山までの切符を手にしてホームに向かう。駅舎の角が宿泊した部屋にあたるけど、おもしろいねえ、あんなところで泊まったんだ(^^)。

極楽橋行き 普通電車 6:45
定時で電車が入ってきた。ホームには2,3人の乗客がいたが、小生以外は反対側の橋本に向かう通勤客だ。この時間で高野山に向かうのは小生一人。

山岳電車といってもいいだろう、キツいRのカーブと絶え間なく出てくるトンネルを電車はゴトゴトのぼってゆく。これだけのRだから車両の長さも短くなってるんだろうか、またモーターなども強いモノが搭載されているんかな。


極楽橋駅 7:11
昨日通過した不動橋にさしかかる。歩いて5時間を要した距離も電車では30分にも満たない間に到着。電車があれば、歩いて参拝しようなんて、思わないね(^_^;。


高野山ケーブル
電車の終点、極楽橋駅の改札を出れば、そのまま高野山ケーブルのホームにつながる。ケーブルの運行も発着する電車に合わせているので、スムーズに高野山駅まで移動が出来る。ケーブルカーは全国的にも限られた乗り物なので、興味シンシン。

328mの高低差を約1km線路で登り、5分でつなぐ。昨日歩いて登った「いろは坂」と同じ区間だけど、1時間はかかっていたね。ケーブルカーでも感じる強い傾斜、よくも登って来られたねえ。線路は左に大きくカーブして、車両をつないでいるケーブルも線路に沿って滑車の上で曲がっている。でもねえ、滑車には脱落予防の枠など見当たらないけど、よくも滑車から外れないねえ。。大丈夫なんだろうけど。


高野山駅 7:23
高野下から40分ほどで高野山駅にやってきた。ここからは、南海バスに乗り換えて高野山の市街地へ。バスも電車と連動しているので、待っているバスに乗ればすぐに出発。

奥之院
壇上伽藍、金剛峯寺と回ってきて、最後に残された訪問地、奥之院に向かう。幼い頃に親に連れてこられたようだが、全然覚えていない。雪の奥之院もいいだろうなと想像していたが、雪はほとんど消えてしまっていたので、残念。

奥之院 一の橋 7:52
高野山の東西に走る通りを東に向かえば、塔頭寺院も途絶えたあたりが奥之院への入口、一の橋。この橋から最深部の弘法大師が眠る「御廟」まで約2kmの距離、その間に20万基のお墓が集まっている。この橋の先は、「あの世」、「浄土」の世界。正式な参拝では、一の橋を渡る前に深く一礼して弘法大師に挨拶。そうすれば、大師自ら、御廟より迎えに来てくれると言われる。

樹齢数百年になろう杉の林の中に、参道が奥に続いている。昼なお暗い奥之院には、苔がびっしりと生えている。

町石
九度山から続く町石を参道に見つける。この先の御廟まで、1町(109m)ごとの石柱がならぶ。

武田信玄
左側の大きめな五輪塔が信玄、右の供養塔が勝頼のもの。武田信玄の有名なひげもじゃの肖像画は菩提寺である高野山の成慶院が所蔵している。
上杉謙信廟
信玄の宿敵、上杉謙信のお墓は、参道をはさんだ反対側にあり、坂をあがった奥にあり、特に厳かで靜かな場所。この謙信廟には、謙信と世継ぎの景勝の位牌が安置される。仏を信じ、この高野山にも出向いて入信するほどの謙信であっから、生前からこの地に自らの墓所を用意した可能性が高い。

いたるところに、名も無き地蔵様が祀られている。コウヤマキが添えられているのも高野山らしい。新緑の頃であれば、もっと美しい苔に出会えるだろう。
薩摩島津家
島津家初代とその後継者が眠る墓所は、石の鳥居や大きな五輪塔など、さすが名だたる大名の墓所といえるだろう。
中の橋
金の川、死の川にかかる中の橋を過ぎるとさらに「あの世」に近づくことになる。

杉の巨木、樹齢は400〜500年はありそう。その枝振りもとても変わっている。途中から四方に枝を伸ばしているのは、以前に主幹が折れたのが理由か?手前の切られた枝の切り口に
、小さなお地蔵さんが置かれていた。なんだか、見るモノすべてが神々しい。

明智光秀
参道から少し入ったところに、明智光秀の墓石。光秀の死後、家臣が建立したとされるが、何度、新しくしても墓石が縦に割れてしまうらしい。

汗かき地蔵
参道には、いくつかの地蔵堂を見かけるが、それぞれ謂れを持っている。中の橋に近い「汗かき地蔵」は、毎日午前9〜11時頃になるときまって、汗を流すと伝えられ、高野七不思議のひとつ。世の中の苦しみを地蔵さんがが一身に受け止めるから、汗が出るのだとされる。

姿見の井戸
汗かき地蔵の裏にある井戸。これも高野七不思議のひとつに数えられる井戸で、中を覗いてその水面に自分の顔が映らないと、三年以内に死んでしまうという怖い言い伝え。小生はどうしたか。。。そんな怖いことできるはずもないので、井戸の近くにすら近寄れなかった。さあ、あなたは、覗けますか?
覚鑁坂(かくばんさか) 参道にあった石の階段、覚鑁という高僧の建てたお堂がこの先にあったので、その名がついた。43段ある石段の中途で転ぶと、これまた三年以内に命を落とすと言い伝えられ、三年坂とも呼ばれる。その話を聞いていたので、注意して階段を上がった。やったね、セーフ。

豊臣家墓所
奥之院でも御廟に近い「奥」で見かけた豊臣家の墓地。石垣の階段をあがると柵で整然と区切られていた。比叡山の焼き討ちなど信長の祖業の中で、高野山も焼き討ちにあう恐れがあったが、秀吉たちがそれを回避させたとも言われる。それもあってか、秀吉はその後も高野山を擁護したので、かような立派な墓所が用意されたのかも。

さらに御廟の近くに織田信長の供養塔を見つける。比叡山を焼き討ちしたほどの「仏敵」である信長がどうしてこの地に墓所を置くことが出来たのか。いろいろ説があるようだが、焼き討ちが、私利私欲に傾いた邪悪な僧侶の心を入れ替えるきっかけになったと再評価され、憎き信長もここに墓所を置くことが出来たという。

御廟橋 8:47
さて、御廟の近くにやってきた。御廟橋は三途の川にかかり、これを渡ればいよいよ「あの世」に入り込む。この先は大師が生活する領域となり、「大師は永遠の禅定に入っている。」とされ、食事が一日に2度、この橋を渡って、御廟に供される。

脱帽、一礼して橋を渡る。この橋は37枚の石で出てきていて、金剛界37尊を表している。大師が参拝者をここまで迎えに来て、帰りもここまで見送りに来てくれると信じられている。この先は、会話を慎み、撮影、携帯通話は禁止。

蟷螂堂(HPより)

蟷螂堂(南海鉄道HPより)
御廟橋をすすむと正面に蟷螂堂。その裏に弘法大師の御廟が存在し、1000年前に藤原道長が今と同じ規模で整えた。右手は青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれる祈親燈、左手は、白河上皇が献じた「白河灯」で、燈籠30万灯を献じ「長者の万灯」と呼ばれる。いずれも1000年以上絶やすことない蟷螂の灯火が守られている。
燈籠堂の天井は言うに及ばず、四方の軒下、壁面まで、寄進された燈籠で埋め尽くされている。そのすべてに照明がはいって、荘厳のひとこと。さらに、燈籠堂の地下に降りると、空間一杯に寄進した信者の名前の彫られた大小の燈籠、小さな仏像が所狭しと陳列されている。その奥には、大きな賽銭箱とその上の大っきな数珠、三鈷杵(さんこしょ)が置かれ、弘法大師の御影のすだれかかる壁は、ちょうど御廟の位置にあたり、壁のむこうに弘法大師が今も座禅を組んでいるとされる。

御廟(高野山発行書籍より)
蟷螂堂の裏手に回ると、巨木の広がる森の中に塀と門で守られた御廟に正対する。信者からの生花が供えられ、蝋燭の火と線香の香り。ぴーんと張り詰めた空気を感じる。周囲には参拝者も見かけず小生ひとり。凍えていた手先がさらに冷たくなって、お賽銭をとりだす手元も怪しくなった。ここに来れたことを感謝して合掌。ふり返れば、なんだかすごく怖かった。

記念燈籠堂(Flickrより)
燈籠堂の外には、同様の燈籠を奉じた建物があり、燈籠堂と合わせると20000基以上の燈籠で占められており、寄贈した信者のパワーに感じ入る。置かれてあった燈籠に献灯のパンフによると、高さ35cmの大燈籠が奉納料100万円、29cmの万燈籠で50万円。とんでもない数の燈籠を思うと、まずます言葉を失う。いろんな意味で、すごいこと。

御供所(ごくしょ)
インパクトのあった燈籠堂の参拝を終え、御廟橋のこっち側に戻ってきた。ばあさんと家族へお守り、そして記念の御朱印を頂く。雨は止む気配もなく、淡々と降っている。

頌徳殿(しょうとくでん) 9:19
御供所の隣には、参拝者の休憩所があり、思わず飛び込んでみた。なんと、強力な暖房が施してあって、いやいや天国。濡れたグローブとマップを乾かしながら、しばし暖をとる。スキー場のロッジで和む姿と一緒だね、こりゃ、ホントに助かった。お手洗いもすませ、ずいぶんと生き返って奥之院の後半にすすむ。感謝、感謝。

復路は西側の参道をすすむ。こころなしか、墓標もゆったりと配置され、カオスな雰囲気は無くなっている。

日産自動車慰霊碑
勤務していた間に亡くなってしまった職員を慰霊する企業の慰霊碑が、奥之院に多く見かける。企業のお墓を聖地の高野山に設置できるのは、企業にとってもステータスで、目立つ墓標は宣伝効果もある。比叡山などにも見られるが、100社もの企業のお墓があるのは高野山だけだ。海外では考えられない、いかにも日本的な終身雇用、企業に尽くす精神を表したお墓だと思う。高度成長期のころから、バブルの1990年頃にもっとも建立が多かったのも頷ける。

献体碑
「医学を志す若き志士貴人 心ある立派な医師になられんことを 夫婦共に若き医学生に捧ぐ。」と刻まれた石碑。 空即是色 「我妻 三途の川原で自我で待つ慈眼也 両目半盲にて書読算皆無なり 霊場までは我が手にて妻が手を引き背負うて仲睦まじく蓮華の花咲く極楽浄土への旅路」 ご自身の遺体を献体に捧げられたご夫婦の志が織り込まれている。小生もこの方たちのおかげで今があることを改めて思う。ひとえに、感謝、合掌。

お釈迦様のお経には、その死後56億7000万年後にお釈迦様の弟子にあたる「弥勒菩薩」が、再び世界に下生し、お釈迦様のいない世界を再び救うと書かれてある。その弥勒菩薩が現れる場所のひとつが、高野山の奥之院とされ、弥勒菩薩に付き添って弘法大師も来生すると言われている。その新たな世界をより近くで会得するために、再生の場となる奥之院に「歴史上の多くの人たち」がこの地に墓標を残そうとしたのは、こういった訳があったのだ。1000年以上、脈々と伝えられ、今に生き続ける仏教の教えは、圧倒的に力強い。

奥之院 入口 9:32
雨の中、レインウエアで全身濡れながら、奥之院の一の橋からぐるっと拝観して終点の中の橋駐車場まで、1時間40分を要した。ふり返って、頭を垂れる。ありがとうございました。
奥之院 中の橋駐車場
さあ、いよいよ 小生の高野山巡りもこれにて大団円。バイクやクルマで何度も通ったことのある奥之院の玄関にやってきた。再び、バス、ケーブルカー、電車を乗り継いで、クルマを置いた学文路まで戻る。

学文路駅 11:23
前日の朝に置き去りにしたGTさんをピックアップする。結局この日も終日、雨の中の移動であった。登山靴を脱いでスニーカー、レインジャケットを脱いでトレーナー、すっごい軽快感で居心地良し。さあ、名古屋へ帰りましょう。

雨の日の山行で得た経験値、歩いて高野山に入山しできた達成感、知り得なかった高野山のいろいろな史実、わずか一泊二日の高野山詣であったが、自分にも会得する何かがあったような気がした。信号待ちで眺める高野山方面は雨でくすぶっている。

名阪国道 針
橋本から京奈和自動車道にのって北上、榛原から桜井に出て三輪大社に立ち寄る。昨今のAMG GTのお祓いをお願いした。桜井からは空いていそうな山奥の道をクネクネ走って「針」まで。そこからは往路と同じ名阪国道をひた走る。針の交差点で見かけた関東ナンバーのオートバイ。それなりの荷物をみれば、ツーリングの帰りか。名阪国道を彼の護衛のようにしばらく後ろを走る。彼とて、望んで雨の中を走っているわけじゃない。きっと暖かい家を目指して辛抱しているはず。彼も無事に帰宅できたであろう事を思って、乾杯。
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