夕張 キタキツネ
湯の元温泉 8:00
さてっと、北海道最終日、夜間に降った雨は、まだ降り足りないようで出立時は雨空のまま。ぐっしょりとぬれたハーフカバーをサイドカーのキャリアに縛り付ける。トランクからは長靴を用意して上下レインウエア+長靴+防水グローブの完全雨仕様の準備をする。ツーリング5日目にして雨走行だ(ここまで晴れていたことに感謝)。
前日はこちら
15時に苫小牧に着けばいい。晴れたらの計画を持っていたが、考え直し。一点主義でじっくり屋内施設を見てくるのもいい。それなら、夕張炭鉱の博物館を思い立つ。三笠から再び山の中へ、R452で大きく迂回して夕張に向かう。
三夕トンネル 8:35
R452は人里離れていて、交通量も少なく快走路。まだ雨が残る中、ノンストップで南をめざす。三笠と夕張の境にあるトンネルを過ぎれば、行政上は夕張となる。日も出ていないので、雨の走行は寒いが、東北旅行の現地で手に入れた農耕作業用のボア付きゴム手袋が役に立つ。名古屋近辺のホームセンターで同等のものを探すが絶対見つからない。
快調に下り道を走っていると、路肩を歩いてくる犬を発見。慌ててブレーキをかけるもちょいと通り過ぎてしまった。あれ、きつねじゃん。
キタキツネ 8:40
急いでカメラを回すが、ホイホイと向こうへ歩いて行く。ぜひ、お顔を拝見したく、「ワン」と犬の鳴き声したら、ふり返ってじーっと見てくれた。悪いね、キツネ君、こうしないとお顔が拝見できなかったんでm(__)m。ひととき見つめ合ったら、またスタスタ、キツネ君は去って行った。
鹿島展望公園 8:55
現在はシューパロダムによる巨大なダム湖が広がっているが、その湖底には、「大夕張・鹿島」という一大炭鉱の街が眠っている。最盛期には1万人以上がこの地域に住んでいたが、閉山と共に人口はがた減りし、ダム建設が始まった1994年に残っていた住民350名が集団転出し、この地は無人となった。その鹿島地区を見下ろす公園には、当時の写真や学校の碑などが展示されている。その頃は鉄道も通じており、賑わった「大夕張駅」なども、今は跡も残さず、
三菱大夕張鉄道・南大夕張駅跡 9:05
さらにダム湖を南下すると、南大夕張駅の跡地に、鉄道が保存展示されていた。木造客車がよさげだねえ。
珍しいラッセル車。後学で調べると「キ1」という形式で、ラッセル車としては、国内で最初ノモノらしい。明治44年にアメリカから輸入され、これを手本に国産化したコピー車両が数多く生産された。この個体がホントに「キ1」であれば、非常に貴重なモノで、国内に来てから110年が経過している。
ラッセル車の後ろには木造客車が内部を開放して管理されている。この雪深い大変な場所に、露天展示されている割には、キレイに保存されているのが素晴らしい。これも後学で調べると、「三菱大夕張鉄道保存会」という団体が、ずーっとこれらの車両を維持、管理していると分かる。
三菱大夕張鉄道保存会
11月になると、保存会の人たちは木製客車にシートを掛けて冬に備える。露天展示の大変さを、皆さんの情熱でカバーしている。こんな努力がなれれば、あっという間に朽ちて仕舞うだろう。この保存会の活動、後学で知って、素晴らしいと思った。寸志ではあるが、ちゃりんと寄付させて頂く。
昭和31年の鉄道網
客車の中には、昭和の鉄道網の路線図が掲載されていた。それをみれば、大変多くの支線が廃止されており、特に日高・帯広方面、網走方面、宗谷岬周辺がすっぽり消えてしまっている。
夕張市街
ぐるっと遠回りで、夕張の町に入ってきた、ようやく雨も上がったと判断し、レインウエアー、長靴を脱ぐ。あ〜、すっきりだねえ、レインウエアは嫌いだなあ。
夕張市石炭博物館 10:00
今日の主たる訪問先、夕張に入って、まずは博物館でお勉強だね。博物館の周囲は、鉱山の建物で埋め尽くされ、周囲の丘陵地には炭鉱夫の住まいが立ち並んでいたとても賑やかな場所だったが、いまは博物館のみポツンと。
展示は炭鉱の歴史をつたえるもので、なかなかしゃれている。「全国最低の行政サービスと全国最高の市民負担」とか、「炭鉱から観光へ、バリバリ夕張」なんてキャッチフレーズ。どこまで自虐的なのか、お気楽なのか、よく分からない。
白い壁面には、石炭採掘高と町民人口の推移が示されている。1890年(明治23年)頃に採掘が始まった夕張探鉱は、その優れた石炭で国内でも最大手の鉱山となり、1980年頃まで高い産出を誇った
しかし、深くなった採石場のために、落盤事故などが発生。そしてエネルギー政策の転換から、石炭の需要が一気に減少し、夕張炭鉱も1977年に概ね閉山となった。夕張市人口も最盛期の昭和35年頃は10万人を優に超える一大都市であったが、令和3年には7000人に激減した。
命をかけて地下深く、作業を続ける鉱夫は、リスクを抱えながらも、かなりの高給取りであったときく。一日、石炭にまみれた真っ黒けの鉱夫の写真、限りなく力強い。
自己捜検(そうけん)の鏡
タバコやマッチ・ライターなど発火物を持って坑内に入ったりしないか、坑内労働に適した服装をしているかどうかを調べるために行う入坑前の検査。
立坑ケージ
2階の展示室から地下展示室に降りるエレベーターに、立坑ケージと名がついている。のれば、エレベータの壁の画像が流れ、炭鉱の深い立坑を降りてゆくような演出を体験する。
地下?、地上?のトンネルに出てくれば、採掘を再現したマネキンたちがお待ちかね。他に入場者がいたんで怖くなかったけど、一人じゃいやだ。最後に採掘の様子を実際の機械を使っての実演を見る。聞けば、担当のスタッフさんは、もと炭鉱夫で、ここで働いていたとのこと。機械の説明も力が入っていて、ありがとうございました。
大露頭
敷地内には、石炭層が地表に露出している箇所があり、ここが夕張炭鉱の始まりとされる。お隣には、閉鎖された坑道を模擬坑道として展示していたが、4年前に火災をおこし、今もその展示は再開されていない。
夕張炭鉱大煙突 10:46
なかなか見応えのあった博物館を後にする。赤い煙突がのこされ、周囲の設備はすっかり取り払われて空き地になっている。
夕張市役所
夕張の市街を探索してみる。まずは、市役所、GWなので人の気配無し。老朽化で移転も検討されるが、資金不足で今だ解決できずとのこと。耐震不足、災害警戒地区にあって、早い移転が望まれている。
夕張市民会館(閉館)
市役所の隣には、昭和モダンな市民会館が建っている。ここには、鉄道の終着駅があったようで、最盛期は多くの人で賑わったところ。1971年に駅が廃止され、2007年の夕張市の財政破綻で一旦閉鎖。しかし、人々の努力で細々と存続したが、2015年に閉館となった。それから8年が経過したが、予算不足で廃墟のままとなっている。
夕張キネマ街道
市役所周辺の建物には、昔懐かしい手描きの映画ポスターがあちこちに描かれている。1990年より、観光事業の一環として、「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」と称して、映画祭が開催される。支援していた夕張市の応援が無くなっても、映画祭は継続しており成果を収めている。その映画祭に合わせ、絵看板が多数描かれ、現在も28枚が残っているとのこと。
夕張市立診療所
炭鉱病院として、明治43年に開設された病院は、夕張炭鉱で働く10万人の医療を担ってきた。しかし、閉山により、1982年に夕張市立総合病院となる。病床数170床、職員150名の総合病院であったが、医師、看護師の減少や診療患者数の減少で、大きな負債を抱えるようになる。平成18年に夕張市が財政破綻して財政再建の手が入ると、病院もその対象となり、わずか18床をもつ診療所となって、民間の医療法人の管理となった。170床の建物に、18床の診療所、夕張で唯一の医療機関なのだそうな。
マウントレースイスキー場
市街に隣接して、リゾートホテルを併設した大規模なゲレンデがある。ホテルは閉館中のようで人の気配無し。後学で調べると、元は炭鉱会社が運営したスキー場、閉山後の観光誘致の一環で、一大リゾートが作られた。しかし、バブル崩壊に合わせ利用客の減少で施設は倒産。夕張市に所有がかわるも、維持できず中国資本に売却。しかし、リゾート会社も倒産し、2020年には事業継続が困難となりスキー場、ホテルとも閉鎖となった。現在は新たな運営会社のもとで、スキー場は営業再開となったよう。
夕張駅跡
夕張駅は二転三転、その場所が変更されている。先ほどの市民会館にあった時代、その後閉山により、マウントレースイスキー場に隣接して「夕張駅」となったが、2019年に鉄道廃止となり線路とホームだけ残った。
旧北炭化成工業所 大煙突
夕張温泉
夕張市街の入口、右手に高ーい煙突が残り、その横には廃墟となったスーパー銭湯。昭和35年に建築された煙突の高さは63m、石炭をコークスに加工する工場は、その当時は花形の産業だった。工場は昭和53年に廃止、以来40年以上もこの地に放置されている。
さて、夕張市をいろいろ見てきて思ったこと。産業の流行廃りがあるのは致し方なし。住民を養っていけるだけの地場産業を失えば、人は散ってしまうだろう。街も自立できなければ、やがて滅びるは必須。これからの日本についても同様だろう、マンパワーが無ければ、やがては衰退する。具体的には、20年、30年後の地方の町や村が健全に存続できているのか、素人ながら、大きく憂う、
新夕張 栗下食堂 11:25
夕張の探検を終えて、なんだかぐったりとした気分に。道東自動車道に乗る前に、新夕張駅前の食堂に飛び込む。みなさんカレーを食べてるし、メニューもカレー蕎麦が一番上にあり。地元名古屋では、カレーといえば「うどん」であって、決して「蕎麦」ではない。食べたことのない組み合わせ、挑戦してみよう。ご夫婦、娘さんたちの家族で切り盛りしている厨房は丸見え、オープンキッチン(^^)。出てきたカレーは、想像通りの「うどん屋さんのカレー」。カレーに負けて蕎麦の風味は全く分からないが、それはそれ、まずまず美味しかった。ごちそうさまでした。これも後で知るが、「カレー蕎麦」は夕張名物なんだって。
夕張IC 12:00
さて、夕張をがっつり味わったんで、苫小牧に向かおう。時間稼ぎに、再び自動車道に乗って追分町ICまでワープ。
安平町追分 12:20
「菜の花畑」をGoogleマップで見つけていたので、追分町ICをおりて、東に向かう。マップのその場所に来てみたが、なーんもなし。無くなったのか、時期が違うのか。何はともあれ、牧草地の広がるこの景色、今日で見納め。
R234 苫小牧郊外 遠浅
R234に入れば、あとはまっすぐで苫小牧の街に入る。5日間の旅が終わる気配に、寂しさを感じると、同時に自宅を思う気持ちも浮かぶ。
苫小牧 13:15
昨年も利用したコイン洗車場を思い出し、5日間の汚れを落としてやる。洗剤の出る標準洗浄が300円は、お安いねえ。バイクのウインドウスクリーンは、虫の汚れがひどい。これは、本州で経験するのとは、程度が違う。足回りを中心にしっかりキレイにしてやった。おつかれでしたね、GLばあさん。今回はまったくノートラブル、よくがんばりました。
ぷらっとみなと市場 14:00
お土産を市場で済ます。自宅や職場の同僚に、毎度の美味しいホッケを用意する。名古屋でもホッケは手に入るが、さすがに地元産のモノには叶わない。こっちのは身がプリッとしていてジューシーだ。
最後の給油。5日間の走行で、約1240kmを走破、90Lのガソリンを消費した。だいたい14km/Lほどの燃費は、古い1200cc 4気筒のバイクと思えば、こんなものだろう。ヤマハイレブンもこんな感じ。コストや楽ちんさ、搭載量だけを考えれば、コンパクトカーで旅をした方が、バイクより優れているかもね。
苫小牧西港 太平洋フェリー 14:40
とうとう、北海道の旅もゴールイン、港に着きました。夕刻に出発する「いしかり」はトラックなどの搭載を始めている。受付で届出を済ませ、キーをお渡しする。おっと、その前に、今日手荷物で持って帰る荷物を分別しなきゃね。洗濯物や助手席のビールケースは、そのまま船上行きだね
担当のスタッフにチョークの位置をお伝えして、バイクをお渡し。相当に手慣れたスタッフだろう、初めてのサイドカーにも躊躇せず、さっさと乗船する。たいしたもんだねえ。かっこいい。そうそう、ヘルメットが無くても、公道上じゃあないので、大丈夫。
特急 北斗
苫小牧駅から、パープルとイエローが美しい北斗にのって南千歳まで。そこで乗り換えをして、一駅で新千歳空港だ。
新千歳空港 16:30
電車も当然のように座れず、多くの人が乗っている。夕刻の空港も人多し。ただし、インバウンドな人たちの集団は見かけなかったね。
新千歳空港温泉 16:40
帰りの飛行機は19時20分発。混雑が予想されるので、1時間前には手荷物検査場にならんでいたほうがいいだろう。それでも、まだ1時間半ほどあるので、夕食がてら空港温泉にご入浴。
受付で「混んでいるけどいいか?」なんて確認されるが、なんてことなく、普通に温泉を楽しんだ。そして、湯上がりに食事処で早めの夕食。北海道最後のクラシック生をゴクリと、間違いなく美味しいねえ。帯広では有名なジンギスカンのお店に行けなかったので、ビールのお供にここで食べてみる。空港のレストランは激混みで落ち着いて食べていられないが、こちらの食事処はガラガラで、時間調整も出来て、一石二鳥。新千歳空港の時間の潰し方で、これは有りだと思う
最後の最後に、かみさんから頼まれていた依頼を果たす。昨年のお土産で美味しかった塩辛をゲットしてこいいう指令だった。合わせて、釧路の炉ばたで頂いた「こまい」を自分用に手に入れた。
セントレア行きの飛行機は見事に満席。ギュウギュウ詰めで飛行機は飛び立った。2歳前後の年子を抱えたお母さんがいたが、泣いたり、声をあげたり、なだめすかすのに大変そう。名古屋に着いたら、お母さん、ぐったりだろうね。
中部国際空港 9:30
名古屋には定刻について、あとは自宅まで電車を乗り継ぐ。ひさしぶりの自宅、旅が終わるたびに、自宅の良さも再確認。
名古屋港 5/8
2日後に、GLばあさんは「いしかり」にのって名古屋港に戻ってきた。勤務をさくっと切り上げて、名古屋港へ引き取りに向かう。既にパーキングに降りていたばあさんと再会。さて、お家に帰りましょう。車載の洗濯物やビールケースを降ろさないとね。無事に、GLばあさんもゴールインだ。
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