
滝谷武奈林道から霊仙山周囲の廃村を巡って霊仙河内の部落までやってきた。ここからは林道巡りの行程で、すでに11時を過ぎようとしており先を急ぐ。河内の部落からは霊仙山の南端がそびえ立つ。

狭い峡谷がつづき、簡易舗装はされてるが、狭くて晴れでも薄暗い峡谷を進む権現谷林道。「これでもか」ってくらい落石があって、クルマではちょっと厳しい。日の当たらない所にはまだ残雪があって、冬の間に雪崩や土砂崩れでの道路閉鎖にならなかったのは幸いだ。秘境を思わせる雰囲気がいっぱいで好きな渓谷。

権現谷を過ぎてさらに南下、すると・・・ 小生にとっては「開かずの白谷林道」であるはずなのに、今日はロープが外されている!! ワクワク気分で「お初の白谷林道」に進入した。さあ、どんな景色が待ってるんだろう。

分岐してからは、地図の上でも十分に延長距離があってグラベルが20km近く続く。ガレていない硬めの林道なので普通に走りやすい。どんどんと高度をあげてゆくと、多賀の山並みが眼下に見えて天気も良いことも重なってすこぶる爽快、快感。

盲腸線だからやがてぷっつりと道路は無くなって終点になる。引き返す見通しの良い先に霊仙山の山頂が目の前に。なかなかこのお山を近くで見ることは難しいので、こんなにきれいに見えて感動!。しばらく見とれていた。同じ場所でも盛夏だったらお山も隠れてしまう、まだ木々の葉がない分、視界が開けていて得した気分。

ふと見つけた小さな沢の堰堤。残雪にちょっと隠れているけど、どこかで見た光景!、そうそう「セロ尾さん」のブログに挙がっていた「泣き顔堰堤」ではないかと確信。今日はお口からよだれ、左目から涙を流してるように見えた(^^)。この先、「堰堤」を見つけるとその排水孔についつい目が行ってしまうようになっちゃった。この白谷林道は初めて踏み入れたが、リピートしたい場所が増えてしまった。また天気のいい日には訪れよう。

権現谷にもどり、行きがけに遠望した五僧峠に立ち寄る。時山のゲートまでは下りていないので通行可能かどうかの確信は無いけど、碑の前には尾張小牧ナンバーのクルマが停車していて、時山方面から上がってきたのではないかと推測。



五僧からは南進して一旦国道302号経由で大杉林道にとりつく。その国道302号の鞍掛峠はいまだ災害で通行止め、これが通れるようになるとツーリングコースの選択肢が増えるのだが、今年の開通は見込めるんだろうか??
本日のメインイベント、酷路林道の起点になる大杉部落に到着。部落の中を通り過ぎるとやがて植林地を経て、未舗装でガレだらけの大杉林道が始まる。特に峠の前後はゴルフボール大からげんこつ大の尖った石で埋め尽くされ、さらにざくざくと石が浮いているので走りにくいこと甚だしい。転けて右くるぶしをバイクにはさみ、痛い思いをしたのは昨年のこの林道だ。そんな痛い思いをしても、この大杉林道のワイルドさや秘境感、林道好きの小生にはたまらないところ。

大杉林道を上がった先がこの林道、いいかげんガレ道走行に疲れたあとで、この広い舗装林道は正直ホッとする。ここなら転倒して動けなくなっても誰かが通るだろうって期待できる。まだ数日前に冬期通行止めが解除されたばかりなので、路面には落石ばかり。そんなんでもストレスなく快調に林道を下ってゆく。滋賀ナンバーのご夫婦にと遭遇し立ち話。「しゃくなげ」を楽しみに御池林道にやってきたそうな。今年はつぼみも見当たらないほど全滅と言っていた。花が咲いていればシャクナゲだって小生でも分かるのだが、たしかにその類いは見かけていない。
でもよくよく考えたら、シャクナゲって5月頃〜の開花じゃなかったっけ、まだ早いんじゃないのかなあ??

御池林道をどんどん降りてきて最初に現れるのが「君ヶ畑」の集落だ。そろってとんがり屋根が目に付くが、とても静かな所。
「木地師」・・・バイクで山奥を走ると山陰、北陸、信州などなど、いたる所でこの君ヶ畑の名前が出てくる。それはこの小さな集落が日本に広がる木地師達のふるさとだからだ。その理由とは・・・この地で始まった「ろくろ」による木製品の加工は、良質の木材を求めてその木地師達の集団が全国の山奥に広がるきっかけとなった。やがて木材を伐採する「許可証」をこの地で管理するようになり、ますます君ヶ畑の存在は大きくなったようだ。なんせ、全国に広がる木地師達の半数がこの地を「本籍地」にしていたくらいだから。

木地師にろくろを教えたというのが、文徳天皇の皇太子であった惟喬親王。時の権力争いから天皇には就かず、出家して隠棲した。その先がこの地であったとされ、地名もこれに由来する。巻物をほどくと芯がくるくる回ることから「ろくろ」が開発され、庶民の器であった白木の椀として広まったそうな。1000年以上も前の遙か昔のお話。それを今も大事に守り伝えていることは、素晴らしいこと。

君ヶ畑をすこし降りてくると蛭谷の村落が現れる。そこには筒井神社が鎮座し筒井公文所が並ぶ。公文所とは全国に広がった木地師達の免許を管理するところで、このお宮と合わせ「一生に一度は参拝する」聖地であった。このあたりは木地師の「小椋」「筒井」を名乗る住民が大半、これは同族婚姻が多かったなごりだ。

以前の探訪で、この下界にある道の駅で地元の特産物の中に木製食器を見つけていた。そこでこの筒井ろくろの作品であることを知っていたので、今回はバイクであったにも関わらず、何か気に入ったものがないか訪れてみた(訪れた事はなかったが、この工房は何度か素通りしていて既知ではあった)。
現れたのは北野さんという蛭谷では唯一のろくろ師、小さな工房でお話を聞くことが出来た。いろいろ見せて頂いて、ビールや冷酒を美味しく頂けそうな器を吟味して譲り頂く事となった。会話の中で面白かったのが、「君ヶ畑」の名を出すと「いや、ここは蛭谷」ってすごく拘ってみえたこと、それは後学で理解することに。。。。

蛭谷からは快走路の国道421号に乗ってその先の石榑トンネルを目指すが、トンネルの手前で右に分岐する林道のゲートが開いているのを発見。地図ではここから南に向かって鈴鹿山脈の西側、道路も村落もなーんもない扇状の流域があってどんな景色か前から気になっていた杠葉谷林道。この機会を逃がしたら再訪はないと思い探検開始。
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譲って頂いたのは貴重なトチノキの木器。きれいな木目で片方は銀をすり込んだ上に無色で塗られ、もう一方は深い漆塗り、いずれも軽く口当たりも持ち具合も気分良い。ささっとシャワーを浴びてさっぱり、この器で冷えたビールをゴクゴク美味しく頂いた。



冬期通行止めが解除されているかも分からない五僧峠はパスして、ぐるっと反時計回りで滋賀多賀の山奥を走る予定。時山のさとを見ながら、今日は向こう側から五僧峠が通行可能かどうか、調べてみよう。

地図を眺めていると面白そうな上石津の霊仙東尾根作業道。偵察がてら入り口の上石津萩原の部落から上がってみたが、案の定すぐにゲート。でも、開けたら閉めよの看板は、探索の希望が残るもの。いずれ、準備万端でこのゲートを越えてみたい。小生の教科書、「セロ尾さん」の情報では、この先に楽しい林道が潜んでいるのだ。

滋賀柏原の街道からはすくっと伊吹山が望める。これも藤原岳と同様に、採掘のため西側斜面が削られてしまっている。コンクリートの原料となる石灰は大事だと思うが、名山と言われるお山にいとも簡単に人の手を加えることはいかがなものか。お役所も大事なお山の景観を壊すのを分かって許可したんだろうか。昭和30年代からの創業、当時は環境問題は二の次であったんだろう。採掘跡は緑化をすすめているというが、一度壊してしまったものは元にはもどらない。


数キロ走った先には登山者の路上駐車がとんでもないことになっている登山口にたどり着いた。ゲートはオープンになってはいるものの、さすがにここを突破する神経は持ち合わせず。それにしても登ってゆくハイカーは沢山いた。

霊仙山の登山案内、幾つかのルートがあって、違う枝分かれ林道もトライしてみたけど、バイクでいける最上部が今回の登山口のようだった。季節をえらんで登山靴に履き替え登ってみたい気もした。汗ふき峠って、どんなところなんだろう。。。でもその先は彦根・多賀の廃村しかないけど。



米原から彦根・多賀の山奥に至るこの路は舗装林道ではあるが、くねくね度とそこからの景観が面白い。ぐんぐんと高度を上げてゆくと、澄んだ空気も味方して琵琶湖はもちろん比良山地もすっきりと見えた。芽吹き始めたお山の薄緑と湖、空の青さが美しい。
中腹にある鎌刃城跡にむかっていると谷間に響く銃声が聞こえる。その先には猟銃を構えた猟師さんが道の真ん中で仁王立ち?!。このあたりで狩りをしてるから引き返して欲しいとのこと、この林道を通らないと大きな回り道になることを伝えて通してもらったが、その先の道中にも複数のグループが狩りをしていた。セローが鹿に間違えられることは無いだろうけど、小生に流れ弾は欲しくない・・・ かなり恐ろしかった。

林道を上がってゆくと樹齢二千年と伝わる大きな杉の木をご神木とする北原(きとら)龍宮 大杉竜王に至る。伊邪那岐尊(イザナギノミコト)が祀られていて、山頂の聖地には伊邪那岐尊の御魂処の岩座(いわくら)がある。長い年月を堪えてきたすぎの大木は見応えがあり、パワースポットなどは信じない小生にも手を合わせたくなる迫力。


山を下ってくると小さな谷間に廃村の武奈が現れる。ゴボウや里芋畑、薪割りや炭焼きで生計を立てていたが、戦後の経済成長に合わせ離村が始まり周辺の村と同様に昭和40年代頃には廃村となった。明治時代には村人154で戸数37を数える村であったようだ。家屋は朽ちてしまっているが、石垣はきれいに残って黄色の水仙が人知れず自生していた。

お社は山の頂にあって、今回は麓の鳥居でお参りを済ます。杉林に囲まれた雰囲気はやはり神秘な空気を作り出していて好きだ。このお宮、先ほどの大杉竜王、そして麓の多賀神社も同じ神様、伊邪那岐尊(イザナギノミコト)を祭っている。イザナギはイザナミと共に日本の土地も生き物もすべてを作ったとされ、アマテラスやスサノオなどを生んでいる。この彦根の山奥に古代からの歴史が眠っているって思うと不思議に思う。


点在する霊仙山周囲の廃村たち。霊仙はちょっとひらけて日だまりも感じられる風情ある村。家屋はきれいに残っていて山桜も美しい。対して、入谷は恐ろしいほどの坂道にできた村。セローのブロックタイヤでも坂の途中では止まれないくらいで、積雪の冬はどうしていたんだろう。村のお寺さんでは今も定期的に前住民の人たちが集っているようで、廃村とはいえ玄関から人が出てきそうな雰囲気。でもエンジン切って、周囲が鳥のさえずりと風の音だけになると、急に人気配の無さが寂しくなってくる。
さてさて、次は本日のメイン権現谷、大杉林道へ向かった(続く)。

今年も新人を迎える季節がやってきた。これに合わせ職場では慰安イベントを企画してきた。昨年はバス旅行であったが、一昨年の屋形船宴会の再現と決めた。職員からの受けもよかったけど、実は小生が屋形船が好きだからだ(^^ゞ。






出港は潮の状況で代わり、干潮では南に位置する「宮の渡し」が出発点。より上流の「納屋橋」からの出発は満潮時しか出来なくって、今回の日程も潮の状況をみて予約した。納屋橋は名古屋でも繁華街の中にあり、大阪でいう「道頓堀」みたいな場所だ。「グリコの看板」に雰囲気の似た「太田胃散」のネオン看板が目印。

とりあえず船は無事に定時で出発。さっそく挨拶と乾杯を仰せつかう。慰労の言葉と日頃の感謝を伝え、さっさと乾杯!!。こんなスピーチは短いが良いにきまってる。

料理人も乗っているので、揚げ物なども出来たてを頂く事ができる。ビール、日本酒、焼酎、ソフトドリンクは飲み放題。持ち込みもOKなので、酎ハイやソフトドリンクも職場からそれなりに用意して乗り込んだ。小生は振る舞い酒として「蓬莱泉 吟」を一升持参した。吟は愛知設楽のお酒でなかなか手に入らないものだが、昔から醸造元から春、秋と届けてもらっている。いわゆる大吟醸でのど越しのよいお酒、人数分のお銚子を持ってひとりひとりに注いでまわる。


遅刻しそうになったのはいずれもこの春からの子たちで、周知した集合場所を知らなくって離れた船着き場に行ってしまったようだ。「なんでもいいから納屋橋までって、運転手さんにお願いしてタクシーに飛び乗りなさい!!」って、直々に携帯電話で連絡し間に合うことが出来た。
そうそう、折角の宴会なんだから、小生がきつく叱ってはいけないと思い、担当の上長には後ほど指導するようにお願いした。m(__)m。慌ててタクシーに飛び乗った姿が想像できて、かわいそうなことをしたものだと自己嫌悪もチクリ(T_T)。

子育てのために夜勤が出来なくってパートで頑張ってくれたスタッフも、この春からは夜勤も頑張ってくれ常勤に挙げることが出来た。これもありがたいお話、共働きで子育ては大変だけど旦那さんにも助けてもらってしっかりと稼いでもらいたい。




予定通り、午後9時には元の納屋橋にもどった。船内に忘れ物が無いことを幹事たちと見て回って離船。皆、三々五々、2次会に散っていった。小生はこの界隈をカメラ片手にうろうろと、普段ではこんな写真も撮らないだろうから、シャッターを押してみた。慣れ親しんだところも写真を撮ってみると新鮮な感じがして面白かった。
また来春も何かの企画ができたらいい。そうなるように、皆でお仕事がんばらなきゃ。

金鯱ビッグマシン会の定例ツーリングに参加した。集合場所はいつもの名古屋城正門前、今年は寒いのか「お堀の桜」はつぼみのまま。集まったのは代わり映えのしない「いつもの」メンバーで8台。互いにペースも個性も周知しているのでこの台数なら走りやすい。10台越えると連んで走るのもやっかいになる。



クラブの設立は設立はなんと、昭和42年(1967年)名古屋を本拠地に遠乗り主体のツーリングクラブ「金鯱オートバイクラブ」が誕生した。翌年には上流団体の「自動二輪遠乗り会」から「金鯱ビッグマシン会」として独立分離した。当時の会員は5名でクラブ名は創設者の「渡辺一元」氏が考えた。「金鯱」は名古屋のシンボル「名古屋城」の天守閣にある金のしゃちほこから取り、「ビッグマシン」とは、これからは”ビッグマシン”の時代であろうと先取りして名付けたということである。
当時の名古屋には「自動二輪遠乗り会」という大きなクラブがあってツーリングをはじめラリーなども主催。名古屋の二輪ライダーの質的向上におおいに貢献した。その後、4輪のラリーに主体が移転したようだが「金鯱」はそこから派生したクラブである。MFJトライアルを主催する名古屋トライアルクラブもここから独立した。



昭和45年、飛騨高山鍾乳洞ツーリング時に岐阜乗合バス転落事故に遭遇。メンバー10名が率先して負傷者の救出と警察への連絡に尽くした。メンバーが名を名乗らずに立ち去るのを、居合わせた観光客が目撃して「オートバイ誌」に出した投稿である。
他には、ツーリング途中の飲酒に関して、ビールを飲んでしまった会員を即除名したことがあった。当時なら「まぁしゃーないな」くらいで多少の批判くらいで済んでしまうところなのだろうが、「金鯱」は違った!。さらに県内の各クラブにそのことをしたためた手紙を出したらしい。(愛知県ではもうツーリングクラブに入れないということか??)。当時は飲酒運転がまかり通っていた時代ではあったが、クラブの存続のためにも交通安全にに厳しい姿勢を貫く必要があったんだろう。


いろいろと今回は金鯱について書いてみたけど、コアメンバーは30年以上も継続しており。。。いわゆる高齢化が著しい。重いバイクを扱えなくなった人がポツポツと退会していくのはとても寂しい限り、しかし小生もいずれは通る路。
昨今、250クラスのスポーツバイクが各社より発表され、市内や郊外にも20代と思わしき若者の乗る姿が見られるようになった気がする。バイク仲間が増えることは楽しいこと、似たような価値観で同じ空気を吸う爽快感、乗り始めの初心者はぜひ金鯱のようなバイク仲間に入ってもらいたい。バイクの面白さ、怖さなどなどを伝えてもらえるだろう。
小生はソロツーリングの勝手気ままさが好きであるが、時にはいつものメンバーとわいわい言いながら走るのも悪くない。所属して35年、金鯱ビックマシン会にも愛着があり、少しずつ風化してゆくのを感じて今回はクラブホームページ記事を要約してみた。

MT-01のオプションカウル、MT-OSキットのシールドをeBayで探して交換した。取り付けてみると微妙に湾曲が強くって先端部分がカウル本体と隙間を生じていた。ラバーを間にはさんで対応したが、ドイツのMRA製で品質は悪くなくって透明感ばっちり。2年前に探して手に入れたがもうWebにも上がっていない。MT-01の初期型がすでに10年選手、だんだんと社外パーツも出てこなくて在庫も尽きてくるのだろう。

大河ドラマ「直虎」の松平家、このふるさとは豊田の松平郷である。愛知のお山を走るときはたいていこの松平郷は通り道となる。今回のツーリングルートも直虎のふるさとを抜けて、新城から三ヶ日、奥浜名湖オレンジロードと快走した。日が当たっている背中はよいが、4月とはいえ、まだまだ手足が凍える。お山がむせかえるような一面の緑に被われる季節が待ち遠しい。